白骨街道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 02:15 UTC 版)
撤退した第31師団の最後尾を務めた宮崎繁三郎少将は、歩兵第58連隊を率い、インパール救出を目指すイギリス第33軍団の前進を巧みな戦術で遅らせ続けた。だが6月22日、ついにイギリス第4軍団と第33軍団がコヒマ・インパール道(英語版)上で握手した。7月3日日本軍は作戦中止を正式に決定した。将兵は豪雨の中、傷つき疲れ果て、飢えと病に苦しみながら、泥濘に覆われた山道を退却していった。退却路に沿って死体が続く有様は「白骨街道」と呼ばれた。 インパール作戦は、イギリス軍側の損害17,587名に対し、日本軍は参加兵力約85,600名のうち30,000名が戦死・戦病死し、20,000名の戦病者が後送された。インパール作戦の失敗はビルマ方面軍の戦力を決定的に低下させた。また、作戦にはインド国民軍7,000名が参加し、占領地の行政は自由インド仮政府に一任すると協定されていたが、作戦の失敗により雲散霧消した。 抗命事件を起こした佐藤は精神錯乱として扱われ軍法会議への起訴は見送られた。ビルマ方面軍司令官河辺正三中将、参謀長中永太郎中将、第15軍司令官牟田口廉也中将らは解任され、後任にはそれぞれ木村兵太郎中将、田中新一中将、片村四八中将が任命された。
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