日本陸軍の建設とは? わかりやすく解説

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日本陸軍の建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)

山縣有朋」の記事における「日本陸軍の建設」の解説

明治2年3月木戸西郷願い出ていた海外留学許可下り6月28日西郷の弟・西郷従道とともに渡欧し、フランス・イギリス・ベルギー・ドイツ・オーストリア・ロシア・オランダを巡遊した。翌明治3年1870年)にアメリカ経由8月2日横浜港到着した帰国後には兵部省ポストに就くよう勧誘されたが、当初病気理由として承諾しなかった。これは山縣友人であった兵部大輔前原一誠直前木戸対立して辞表出していたため、それに配慮してのことであった当時兵部省は、明治2年山縣海外留学中に長州新政府幹部1人でもあった初代兵部大輔大村益次郎暗殺されたことで制度滞ったままで、兵力少な皇居護衛程度しか任務がない小官庁であり、兵部卿有栖川宮熾仁親王名目上トップで、実際岩倉具視木戸大久保利通文官強い影響力持っていた。さらに兵部少丞山田顕義との関係は希薄であり、仮に上官となって服従させられるとは限らなかった。結局8月28日山縣兵部少輔任命され前原がまもなく辞職したことで、事実上兵部省次官となった11月には徴兵制さきがけとして、畿内五カ国から兵を募る計画立てたが、実現はされなかった。 山縣各藩分かれている軍事力中央にまとめるため、薩摩戻っていた西郷政府呼び出す必要がある考えていた。明治3年12月島津久光東京に招くためとして岩倉勅使として鹿児島派遣され山縣随行した鹿児島では大久保・川純義・西郷従道とともに西郷説得した山縣長州木戸面会した後、翌明治4年1871年1月末に帰京したこのころ木戸廃藩置県実現確信を得るに至ったが、それは山縣薩摩から得た情報元になっており、木戸山縣薩摩との連絡役を頼むなど、大きな信頼を寄せることとなった2月には日田騒動鎮圧関与している。また廃藩置県後をにらみ、日本各地旧藩兵を駐屯させる鎮台制度の調整開始している。山縣西郷従道兵部省内の改革進め4月には兵部省内の部局陸軍海軍分けている。 6月25日には太政官大改革が行われ、ほとんどの卿と大輔辞任し山縣兵部少輔辞任している。6月29日には兵部少輔再任された。また、7月1日には大久保大隈重信井上馨とともに官制改正のための制度取り調べ命じられた。7月6日には西郷の元を訪れ廃藩説得にあたっている。7月14日廃藩置県の詔が出た日に兵部大輔昇進し、卿のいない兵部省トップとなった明治5年1872年2月27日兵部省陸軍省海軍省分割され山縣陸軍大輔となった3月9日には山縣の上奏により御親兵廃止され近衛設置され山縣近衛都督陸軍中将にも任じられた。また3月には鎮台制度が開始されている。明治6年1873年1月の2鎮台増設とともに東京軍管で全国徴兵前段階としての新兵募集が行われている。

※この「日本陸軍の建設」の解説は、「山縣有朋」の解説の一部です。
「日本陸軍の建設」を含む「山縣有朋」の記事については、「山縣有朋」の概要を参照ください。

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