日本陸軍の建設
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明治2年3月、木戸や西郷に願い出ていた海外留学の許可が下り、6月28日に西郷の弟・西郷従道とともに渡欧し、フランス・イギリス・ベルギー・ドイツ・オーストリア・ロシア・オランダを巡遊した。翌明治3年(1870年)にアメリカ経由で8月2日に横浜港に到着した。 帰国後には兵部省のポストに就くよう勧誘されたが、当初は病気を理由として承諾しなかった。これは山縣の友人であった兵部大輔・前原一誠が直前に木戸と対立して辞表を出していたため、それに配慮してのことであった。当時の兵部省は、明治2年の山縣の海外留学中に長州の新政府幹部の1人でもあった初代・兵部大輔の大村益次郎が暗殺されたことで制度も滞ったままで、兵力も少ない皇居の護衛程度しか任務がない小官庁であり、兵部卿有栖川宮熾仁親王は名目上のトップで、実際は岩倉具視や木戸・大久保利通ら文官も強い影響力を持っていた。さらに兵部少丞の山田顕義との関係は希薄であり、仮に上官となっても服従させられるとは限らなかった。結局8月28日に山縣は兵部少輔に任命され、前原がまもなく辞職したことで、事実上の兵部省次官となった。11月には徴兵制のさきがけとして、畿内五カ国から兵を募る計画を立てたが、実現はされなかった。 山縣は各藩に分かれている軍事力を中央にまとめるため、薩摩に戻っていた西郷を政府へ呼び出す必要があると考えていた。明治3年12月、島津久光を東京に招くためとして岩倉が勅使として鹿児島に派遣され、山縣も随行した。鹿児島では大久保・川村純義・西郷従道とともに西郷を説得した。山縣は長州で木戸と面会した後、翌明治4年(1871年)1月末に帰京した。このころ木戸は廃藩置県実現の確信を得るに至ったが、それは山縣が薩摩から得た情報が元になっており、木戸は山縣に薩摩との連絡役を頼むなど、大きな信頼を寄せることとなった。2月には日田騒動の鎮圧に関与している。また廃藩置県後をにらみ、日本各地に旧藩兵を駐屯させる鎮台制度の調整を開始している。山縣と西郷従道は兵部省内の改革を進め、4月には兵部省内の部局を陸軍と海軍に分けている。 6月25日には太政官の大改革が行われ、ほとんどの卿と大輔が辞任し、山縣も兵部少輔を辞任している。6月29日には兵部少輔に再任された。また、7月1日には大久保や大隈重信・井上馨とともに、官制改正のための制度取り調べを命じられた。7月6日には西郷の元を訪れ、廃藩の説得にあたっている。7月14日、廃藩置県の詔が出た日に兵部大輔に昇進し、卿のいない兵部省のトップとなった。明治5年(1872年)2月27日、兵部省は陸軍省・海軍省に分割され、山縣は陸軍大輔となった。3月9日には山縣の上奏により御親兵が廃止されて近衛が設置され、山縣は近衛都督・陸軍中将にも任じられた。また3月には鎮台制度が開始されている。明治6年(1873年)1月の2鎮台増設とともに、東京軍管で全国徴兵の前段階としての新兵募集が行われている。
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