新しい人権
日本国憲法に個別の権利として明記されていないが、一般的な人権として保障されるべきだとされる権利。
新しい人権には、環境権やプライバシー権、あるいは知る権利などが含まれる。日本は、戦後の経済発展によって、社会構造や人々の生活様式などが変化している。その変化に伴い、憲法では規定されていない新たな種類の問題が生じるようになったことで新しい人権の概念が生まれたとされる。
2013年現在は、一般的に新しい人権を肯定する説が通説とされる。しかし新しい人権をめぐっては学説の対立があり、既存の憲法の条文を組み合わせることで、十分にその権利が憲法によって保障されているとする説もある。
2013年6月現在、新しい人権を憲法に加えることが議論されている。
新しい人権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/12 00:43 UTC 版)
![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2017年6月) |
新しい人権(あたらしいじんけん)とは、憲法の定める個別の権利保障規定に明示されてはいないが、憲法上の人権として保障されるべきであると主張される権利。
日本国憲法に定められていない新しい人権の例として、プライバシー権、環境権、「嫌煙権」、「知る権利」、「肖像権」などが挙げられる。
背景
新しい人権という考え方が生まれた背景には、経済発展につれて発生してきた都市問題や社会の変遷から生まれてきた私人間の問題などから、人々の生活が従来認められてきた人権では十分には守られていなかった、もしくはそもそも全く守られていなかったという根元的な問題がある。
例えば日照権は日を遮るものが自然物しかなかった時代には問題にならず、人工物が日照を得るのを妨害することが目立ち始めたことによって発生したという経緯がある。
また、プライバシー権は(程度の差こそあれ)都市化した社会において問題になるものであり、お互いが顔見知りである社会では意識されることが少なく、問題も小さかった。したがって、プライバシー権が意識されるようになったのは都市化が進んだ近代以降であることが分かる。
新しい人権の権利性
以下は日本国憲法下での議論や解釈である。
そもそも、新しい人権を認める必要があるかについて、学説の対立があった。
否定説・肯定説
これを否定する説は、新しい人権といえども「既存の条文のいずれかに含ませることが出来る」、「既存の条文を組み合わせることで十分な根拠たりうる」と主張した。肯定する説は、「憲法典といえども完全ではなく、時代の変化に伴って新たに保障されるべき人権が生じることは十分にありえる」と主張した。
肯定説が通説
現在では、新しい人権は既存の人権にはない内実を有しており、独自の人権として認める意義があることから、肯定説が通説である。そして、新しい人権の実定法上の根拠を憲法13条の定める幸福追求権に求める。憲法13条の幸福追求権は憲法上の各人権の総則的な規定であることから、人の幸福追求のために新しい人権を認めるのであれば根拠になることができる、ということである。
新しい人権を認める基準をめぐって
ただし、通説の中でも新しい人権を認める基準をどう定めるかについては争いがある。
多くの説は「人格的生存に不可欠なもの」のみを新しい人権として認めようとする(人格的利益説)。これは新しい人権を次々と認めていくと、既存の人権に比べて内容があいまいなものも人権として認められてしまい(これを「人権のインフレ化」などという)、結局は新たな人権と既存の人権の無用な衝突を招きかねないから一定の歯止めが必要、などとするためである。
これに対し、少数ではあるが有力に主張されているのが、一般的行為自由説である。これは憲法13条の定める幸福追求権から、人は一般的な行為の自由権を持っており、それを根拠に人権として広く認められる権利があると考える立場である。この立場は人格的利益説の批判に対して、人格的な価値以外の部分についてはより弱い保障のみを与えるからインフレ化の問題は起こらない、などと反論している。
しかし、この両説の認める人権の範囲については直接には大きな関係はない。人格的利益説によって新しい人権とされるものは一般的自由説によっても強い保護を受けうる人権となるからである(ただし、その周辺により弱い人権が保障されるかどうかという問題では差が生じる)。しかし、幸福追求権が有する内実をどう捉えるか、ひいては憲法の認める人権の性質をどう捉えるか、といった理論的な問題に関わることになる。
判例により認められた新しい人権の例
- プライバシー権 - 三島由紀夫著「宴のあと」第一審判決(ただ、最高裁でプライバシー権を真正面から認めたものはまだない)
- 人格権(名誉権) - 北方ジャーナル事件最高裁判決(ただ、最高裁が人格権を“憲法上の”権利であると認めているかは明白ではない)
関連項目
新しい人権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 00:11 UTC 版)
日本国憲法において、基本的人権の尊重は三大原則の1つである。 日本国憲法のうち「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とうたっている第25条の生存権や教育権などの人権に対しては、解釈が分かれている 「政治指針に過ぎず、(たとえば個々の国民が訴訟で生活扶助を要求できるような)直接具体的に与えられた権利ではなく、国の法的義務はない」とする我妻栄のプログラム規定説、 具体的権利ではないが抽象的な法的権利であるという鵜飼信成らの抽象的権利説、 具体的権利であるとする和田鶴蔵らの具体的権利説。 1、2の視点であれば、具体的権利を個々に記載するためには憲法改正が有効に働くといえる。 第13条も当初は、プログラム規定説に似た一般原則規定説で「具体的権利ではなく第14条以下に規定する基本的人権の総称」と解釈されていた。しかし、1960年代以降、幸福追求権は憲法に列挙されていない新しい人権も包括する権利で、それら新しい権利は裁判上の救済を受けられる具体的な権利であると解されるようになり、判例も認めている。(補充保障説)。これは具体的権利を個々に記載する憲法改正は不必要という人の論拠になろう。 人権追加の改正が必要かどうかというテーマに関して、解釈の範囲内で運用すれば十分であるという反対論と、もはや現代では不十分となってしまったので明記すべきだという推進論とがある。 まず、反対論者は「人権明記とセットで発議されることで第9条の改正が可決されやすくなる」ことを危惧している。基本的人権は「人間である以上誰でも当然にもっている権利」であって、憲法が書いたから与えられるものでも、国民が国家機関から恭しく押し頂くものでもない。そして、上記の具体的権利説や補充保障説のように憲法が新しい人権も将来にわたって包括して保障しているから、細目を追記するための憲法改正は不必要であるという。また、一部の憲法学者からは人権条項とセットで、国民の義務を規定する条項が挿入されることに反対する意見が出ている(後述)。 一方、推進論は、主に、自由民主党、公明党などの改憲・加憲派が主張している。推進論者は、日本国憲法制定時に想定されていなかった人権を、現代社会の必要性に応えて他の人権と同様憲法に明記していくのは必要だという。これはプログラム規定説、抽象的権利説、一般原則規定説などがとられて、司法、行政などによって拡大解釈、縮小解釈などのブレが起こってしまうのを防ぐためという。 自由民主党が2012年新憲法草案 で明記した新しい人権は次のとおり。 環境権 - 良好な環境を享受する権利(これを要求しているNPOもある)(本草案では、全国民が良好な環境を享受する権利としてではなく、国の環境保全の責務として記載) プライバシー権 - 個人の私生活などを守ることができる権利(本草案では、個人情報の保護等として簡単に記載) 知る権利 - 国や地方自治体に情報公開を要求できる権利(国政の説明責任として記載) 知的財産権 - 発明者の権利(ただし本草案では濫用を戒める留意点も追記されている) 犯罪被害者の権利 - 犯罪被害者のための権利(全国犯罪被害者の会も要求) 障害者の権利 - 障害者が住みやすい国を創るために必要な権利(本草案では障害の有無に関わらない平等として追記) この憲法草案では、人権が追加された一方で、歯止めとして、国民には「自由及び権利には責任及び義務が伴う」ことが追記された。同時に、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に置き換えられた。第21条における言論の自由・表現の自由を大韓民国(第六共和国)憲法第21条4項の規定などに倣い「青少年の保護」を主な理由に「公衆道徳・社会倫理を逸脱する表現は対象外」とするものがその代表例である。但し、表現の自由に対する制約は自民党・保岡私案において明記されたのを始め党内でもこれを支持する意見が優勢であったが、2005年公表の党草案からは除外されている。この他、同草案では両性の平等を規定する第24条を「両性は家庭を保護する責務を負う」とする内容に改める案が提示されているが、この案に対しては「戦前の閉鎖的な家制度への回帰を目指すものだ」との反発も出ている。 上記のような論点に関して批判派は、「公共の福祉」は他の個人の人権との衝突を国家が調整することを指す言葉であって(→公共の福祉#一元的内在制限説(通説))、戦時の秩序維持のための人権制限や、国家事業のための個人の財産の収用までも意味しかねない「公益及び公の秩序」への置き換えは行き過ぎである、一元的外在制約説への逆戻りである、権利・自由は義務や責任を果たす事への対価として下される物ではなく別個に存在する物である、あるいは義務に関することは法令で規定すればよく、そもそも憲法で規定することではないと指摘する。憲法で国民の義務や権利の制限を記述することは「憲法とは人民を入れておく檻ではなく、政府を入れておく檻である」(トーマス・ジェファーソン)との原則に反するとの主張がある。「自由及び権利には責任及び義務が伴う」については、自由や権利は“義務を果たし責任を取る事の代償に与えられる”性質のものではない(先国家的なものとしての人権、あるいは天賦人権)との意見がある。 現在、世論調査では、9条を除いて新しい(人権明記を含めた)憲法への改正に賛成かどうかとの問いに、6割 - 8割が賛成している。ただし、その一方で9条を変えるべきでないという声はなお根強い。 「人権」および「立憲主義」も参照
※この「新しい人権」の解説は、「憲法改正論議」の解説の一部です。
「新しい人権」を含む「憲法改正論議」の記事については、「憲法改正論議」の概要を参照ください。
- 新しい人権のページへのリンク