租税国家の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 19:25 UTC 版)
1733年、ウォルポール内閣は内国消費税改革に試みたが反対された。しかし、オーストリア継承戦争や七年戦争(1754年-1763年)に続いて、フランス干渉戦争では戦費のための政府債務が4000万ポンドにまで膨張した。1796年、ウィリアム・ピット首相は直接査定税を引き上げ、内国消費税の課税対象を拡大、1798年には富裕層への直接税トリプルアセスメント(Triple Assessment)を導入した。しかし、これは馬車、家屋、窓、柱時計などの「外形標準」から推定される所得に課税するもので、現実の所得に対するものでなく、また十分な収入にならなかったため半年しか実施されなかった。1799年に世界で初めて所得税が導入された。土地家屋や海外財産の所得、商工業や給与による所得などを源泉としたため、現実の所得を総合的に正確に把握できるようになった。1803年には申告納税ではなく、源源泉徴収方式に切り替えられ、5つの所得源ごとに課税されるシェデュール制(shedule)となった。1815年のナポレオン戦争終結直前には総戦費の20%に当たる1480万ポンドの税収となった。これ以降、産業革命による資本主義の発達を背景に所得税を中心とした所得課税が世界に普及していく。ただし初期の所得課税は高額所得者に対するもので、税収総額としてはわずかなものであった。 19世紀には資本主義の矛盾が露呈し、恐慌と不景気による失業には経済の自動調節では解消できないようになり、国家介入が要請されるようになった。ここにおいて近代国家の機能は夜警国家から福祉国家へと変化していき、生存権という新しい人権も生まれた。 19世紀末にはジョン・ラムゼー・マッカロックやアドルフ・ティエールらによって租税を保険料として解釈する租税保険説が現れた。
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