新しい事業機会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 06:44 UTC 版)
「ベネディクト・アーノルド」の記事における「新しい事業機会」の解説
1785年、アーノルドと息子のリチャードはニューブランズウィック州セントジョンに移動し、西インド諸島との貿易を行う事業を設立した。最初の商船ロード・シェフィールドが到着したときには、アーノルドが騙したと言う造船業者からの告発も付いてきた。アーノルドは契約で合意していた商船の引渡しが遅れたときの損料を引いただけだと主張した。その商船が最初の航海を終えた後、アーノルドは1786年に家族をセントジョンに連れてくるためにロンドンに戻った。ロンドンに居る間に、彼がいない間にペギーが争っていた未払い負債に関する訴訟に巻き込まれ、フィラデルフィアに住んでいる時の負債12,000ポンドを解決するために900ポンドを払った。1787年に家族でセントジョンに移住し、アーノルドは一連のまずい取引や些細な訴訟で大騒ぎを起こした。最も重大な名誉棄損の訴訟で以前の共同経営者に勝訴した後、町の住人が彼の家の前、ペギーや子供達が見ている所で彼の肖像を燃やした。アーノルド家の家族は1791年12月にセントジョンを離れてロンドンに戻った。 1792年7月、ローダーデール伯爵が貴族院でアーノルドの名誉を攻撃した後、アーノルドは伯爵と決闘したが流血は無かった。フランス革命が起こり、アーノルドは私掠船を仕立てて、危険性は増したものの西インド諸島との貿易を続けた。グアドループではイギリスのスパイ容疑でフランス当局に投獄され、守衛に賄賂を渡して海上封鎖中のイギリス艦隊に逃げることで絞首刑をなんとか免れた。イギリスが領有する諸島で民兵隊の立ち上げに貢献し、土地の所有者達からはその努力に称賛を受けた。アーノルドはこの仕事で広く尊敬と新しい職を得ることを望んでいたが、その代わりに自身と息子達のために、アッパー・カナダ(現在のオンタリオ州レンフルー近く)に15,000エーカー (60 km2) の土地特許を得た。
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