新しい世界観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 15:00 UTC 版)
16世紀中葉以降、ヨーロッパ人が渡来して当時の日本に世界全体におよぶ地理認識が伝えられると、それまで日本人が依拠してきた本朝(日本)・震旦(中国)・天竺(インド)から成る「三国世界観」は大きく揺さぶられることとなった。中世の日本人が思い描いていた仏教色の強い世界観は変更をせまられ、従来の「三国」がアジアの一画を占めるにすぎないことが広く理解されたのである。 日本国内にあっても、世界と日本の地図を裏表に描いた各種の「世界図屏風」が作成され、男女を描いて世界の民族を示した「万国人物図」も刊行された。なかでも、イタリアのマチェラータ出身で明国での布教に尽力したイエズス会宣教師マテオ・リッチ(利瑪竇)が1602年に作成した「坤輿万国全図」は、ヨーロッパの世界地理認識と東アジアの地理認識を組み合わせた当時世界最高水準の世界地図であり、説明が漢字で日本人にも親しみやすいところから、日本にも伝えられて数多く模写され、当時の日本人の世界地理認識に大きな影響をあたえた。やがて、江戸幕府によって長崎貿易を許可されたオランダの人々によって、より正確な世界地図や地球儀がもたらされた。 このように多種多様な世界地図が伝来し、それをもとに多くの日本人も世界地図や地球儀製作にたずさわったこと、また、これらがさまざまな形で一般に流布したことは、近世日本文化を特徴づける要素のひとつとなっている。鎖国体制にあっても日本人の海外への関心は失われることはなかったのである[要検証 – ノート]。 情報空間がひろがり、[要検証 – ノート]島原の乱以降の平和によって日本列島全体が経済成長を遂げたことが、文芸・芸術の発展や諸学問の興隆のもととなった。
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