招提
(招提南町 から転送)
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招提 | |
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北緯34度50分22秒 東経135度41分13秒 / 北緯34.83944度 東経135.68694度座標: 北緯34度50分22秒 東経135度41分13秒 / 北緯34.83944度 東経135.68694度 | |
都道府県 | ![]() |
市町村 | ![]() |
人口情報(2025年9月1日時点[1]) | |
人口 | 16,265 人 |
世帯数 | 7,751 世帯 |
面積(2020年時点[2]) | |
3.180936 km² | |
人口密度 | 5113.27 人/km² |
郵便番号 | 招提大谷:573-1153[3] 招提北町:573-1138[3] 招提田近:573-1132[3] 招提中町:573-1152[3] 招提東町:573-1154[3] 招提平野町:573-1135[3] 招提南町:573-1155[3] 招提元町:573-1133[3] 西招提町:573-1137[3] |
市外局番 | 072[4] |
ナンバープレート | 大阪[5] |
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招提(しょうだい[6] / しょだい[6])は、大阪府枚方市の地名。1889年(明治22年)から自治体・招提村として、1935年(昭和10年)から1980年(昭和55年)にかけては大字として存在した[7]。本項では中世以来の招提、および名前に「招提」を含む現在の枚方市の町について述べる。
現行行政地名
「招提」という言葉を含む現行行政地名は次の通りである[注釈 1]。
- 招提大谷(しょうだいおおたに)1–3丁目
- 招提北町(しょうだいきたまち)1–3丁目
- 招提田近(しょうだいたぢか)1–3丁目
- 招提中町(しょうだいなかまち)1–3丁目
- 招提東町(しょうだいひがしまち)1–3丁目
- 招提平野町(しょうだいひらのちょう)
- 招提南町(しょうだいみなみまち)1–3丁目
- 招提元町(しょうだいもとまち)1–4丁目
- 西招提町(にししょうだいちょう)
招提北町1・3丁目、招提田近1–3丁目、招提東町1丁目の一部および3丁目、西招提町では地番表示が行われる[9]。それ以外の地域では住居表示が実施されている[9]。
現在の読み方「しょうだい」は昭和40年代に住居表示が開始されたのに伴い決められたもので、それ以前は「しょだい」と読まれた[10]。そのため、地元では「しょだい」と読まれることが多い[10]。
地理
招提は枚方市の北部に位置しており[11]、北を流れる船橋川と南の穂谷川との間に挟まれている[7][11][注釈 2]。
南東から北西に流れる船橋川を北限として、南北に走る府道18号の東には、北から順に招提北町、招提元町、招提中町2・3丁目、招提南町2・3丁目があり、府道18号の西には西招提町、招提平野町、招提中町1丁目、招提南町1丁目がある[11]。船橋川を挟んで招提元町の東には招提田近があり、招提中町・招提南町の東には招提東町が、その東には国道1号を挟んで招提大谷がある[11]。
これら地域の北隣には東船橋や東山があり、一部では京都府八幡市と境を接している[11]。東では高野道や北山、長尾北町、長尾西町、長尾谷町と隣接し、南では穂谷川を挟んで田口山や田口、交北と、西では東牧野町や養父丘、養父東町、南船橋と隣接している[11]。
河川
湖沼
歴史
招提の成立
招提は戦国時代から見られる地名で[7]、河内国交野郡牧郷に属した[17]。
戦国時代、浄土真宗の道場(招提道場[18]、後の敬応寺[19])を中心とする寺内町として招提は成立した[20][注釈 3]。その集落は南北に走る旧河道西沿いの河岸段丘上にあって、かなりの高台に位置しており、他の中世の寺内町と同様、防御上の理由からこの地が選ばれたとみられる[23]。集落の北東に位置する御堂池は河川を堰き止めて作られたもので、集落建設と同じ時期に築かれたとされる[23]。
招提の成立時期について、『招提寺内興起後聞記幷年寄分由緒実録』(以下『由緒実録』)では、天文10年(1541年)に建設準備が開始され、天文12年(1543年)に建設が始まったとされている[24]。明和8年(1771年)に成立[25]した『由緒実録』は寺内建設に関わる記述について不確かであると指摘されるが[26]、信憑性が高いと考えられる史料『誓円ノ日記』に天文11年(1542年)に寺内町建立の準備が始められたとあることから、馬部隆弘は招提寺内町の起源を天文10年代に求めてよいと述べる[27]。
招提寺内の発起人について、『由緒実録』は近江国の住人の片岡正久と河端綱久とする[28]。2人は将軍・足利義晴から牧郷内の無主荒地を与えられ、本願寺蓮如の六男・蓮淳を招いて真宗道場を築いた[29]。道場の境内は方8町と定められ、その周囲に東西30町、南北21町余の領分があったという[30]。寺内には守りを固めるため浪人が招かれ、その中には小篠隠岐や同次太夫、亀之丞、野尻治部らがいたとされる[31]。なお、招提寺内建設を主導したとされる片岡家と河端家は、近世の招提村で庄屋を務めている[25]。
こうした『由緒実録』の記述に対し、近世初期に片岡正次(法名誓円)[注釈 4]が著した『誓円ノ日記』では、小篠兵庫(房純[35])が野尻治部に働きかけて、河内守護・畠山氏から寄進状を、守護代・遊佐氏から添状を獲得した旨が記されている[36]。その一方で蓮淳に対しては片岡正久が働きかけを行ったという[36]。『誓円ノ日記』は事実が淡々と列挙された、庄屋としての備忘録のような性格のもので、先述の通り信憑性が高いと見なされる[37]。その記述からは、小篠兵庫と片岡正次の2人が招提寺内町建設の中心人物だった様子がうかがえる[36]。招提寺内成立後の小篠家は、招提に残る者と招提を離れて肥後細川家に仕える者とに分かれ、招提に残る小篠家は18世紀中頃に断絶した[38]。
小篠兵庫と片岡正次の出自については、石清水八幡宮(京都府八幡市[39])境内に勢力を持つ侍衆の一族と考えられる[25][40]。八幡地下の侍衆は土倉や酒屋、問屋を経営しており、招提寺内の建設に際して、小篠・片岡両氏の土倉や問屋から資金援助があった可能性が考えられる[40]。
なお、小篠兵庫が働きかけを行った野尻治部は、『由緒実録』では浪人の一人とされるのみだが[41]、河内守護・畠山氏の有力内衆で[42]、北河内最大の戦国領主だったことが指摘される[41]。天文21年(1552年)、安見宗房が対立する萱振一派を粛清した際に野尻治部は失脚し、安見宗房の子が野尻を称しているが[43]、その後『由緒実録』の記述通りに浪人として招提に入った可能性は残るとみられる[44][注釈 5]。
『由緒実録』には、戦国期の招提に関する文書が複数収められている[46]。これらの内、実在が確かなもので最も古いものは、永禄10年(1567年)霜月付の三好康長・篠原長房の連署による「河州招提寺」宛ての禁制である[47]。従来最も古いとされた文書としては、「牧郷惣中」宛ての年未詳3月2日付綱知・教正連署奉書があり、『由緒実録』ではこれは寺内建設に際して河内守護代・遊佐長教家臣の「教正」と「綱知」が出したものとされている[48]。しかし、そこに据えられた花押からこの2人が三好義継内衆で後に織田信長に寝返った池田教正と多羅尾綱知であることが明らかとなっており、発給時期は永禄11年(1568年)以降と推定されている[48][注釈 6]。発給年が記されたものとしては、天文13年(1544年)11月付の細川晴元禁制が『由緒実録』に載るが、この禁制は現存しておらず[47]、実在は疑わしいとされる[24]。
また、天文15年(1546年)の細川氏綱の書状に「牧・交野一揆」という言葉があり、氏綱はその軍事動員を図っていた[49]。この一揆は16世紀中頃に生まれたものと推定され、そのうちの交野一揆の中心地は私部郷(交野市私部)だったとみられる[50]。もう一方の牧一揆および戦国時代末期の牧郷の中心は、天正12年(1584年)の時点で牧郷最大の村が招提であること(『河内国御給人之内より出米目録』)や[51]、牧郷惣中宛ての多羅尾綱知・池田教正連署状や大坂夏の陣の際に出された「片野郡まき郷庄屋衆中」宛て百姓還住令の原本が招提村の河端家に伝わることから、招提であったと考えられる[52]。
織豊期の招提
永禄12年(1569年)、堺の商人の今井宗久が、野尻備後守が借銭を返済しないとして織田信長に訴えており、牧郷が差し押さえの対象となっている[53]。このことから、招提を含む牧郷の代表的領主は野尻氏だったとみられる[53]。
元亀元年(1570年)に織田信長と本願寺の間で合戦が始まると(石山合戦)、招提は信長に属した[54]。元亀元年9月には信長から「しょたい寺内中」に宛てて安堵状が発給され、元亀3年(1572年)3月には「河州招提道場」に対し、柴田勝家と佐久間信盛の連署による禁制が出されている[55]。
天正年間のものとみられる書状では、佐久間信盛が津田重兼(主水佑[56])に対して、一宮(枚方市牧野阪)から材木を運ぶため招提から人足を出すように要請している[57]。これにより、野尻氏から接収された牧郷が津田重兼の所領となっていたことや、その中でも招提が重兼の本拠とされていたことが推測される[57]。
河内国交野郡の津田氏としては、津田城(枚方市津田)を本拠にしたとされる津田氏が知られている[58]。この津田氏は17世紀末に創作されたものだが、『由緒実録』にも度々登場している[57]。それによると、天正10年(1582年)6月の山崎の戦いに際して津田の津田主水(主水頭正時[59])は明智光秀の誘いに乗ってそれに味方したが、その際、招提の人々も津田主水に誘われ、明智方として参戦したという[60]。その後、明智方が敗北すると、津田主水とその一族らは追放され、招提寺内は不入の特権を剥奪されたとされる[61]。
山崎の戦いに関する津田主水と招提の記述は、招提の領主である津田重兼の話が元になったと考えられる[62]。津田主水が八幡に隠棲した後、その家老である谷村伝助らは招提寺内を頼ったとされるが、谷村家は由緒ある家として招提に残っている[62]。この谷村家は実在した津田重兼の家臣だった可能性が高いとみられる[62]。
天正11年(1583年)6月、招提は初めて検地を受け、その村高は568石6斗5升とされた[63]。また同年7月より、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の蔵入地となって、石川伊賀守の支配を受けることになった[64]。天正13年(1585年)6月に再び検地を受け、この時は627石2斗とされる[65]。この後、文禄2年(1593年)から行われた検地では、招提村の石高は720石とされた(文禄3年に下付された検地帳による)[66]。また、この時の検地帳によると招提村の家数は62軒だった[7]。
文禄4年(1595年)7月に石川伊賀守が死去すると、その二男の貞清と三男の頼明が枚方地方の代官となり、その支配は慶長5年(1600年)まで続いた[67]。
江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの結果、枚方地方の代官だった石川兄弟の内、兄・貞清は浪人となって、弟・頼明は死罪とされた[68]。同年11月より、豊臣氏旗本の西川八右衛門が招提村の代官に就き、慶長6年(1601年)5月、西川八右衛門を含む豊臣氏旗本衆6名[注釈 7]の加増地としてそれぞれが知行することになる[68]。元和元年(1615年)、大坂の陣で大坂方だった5名は改易となり、彼らの知行高合計615石7斗3升は幕府領となった[69]。一方、片桐且元の預かり与力だった西川八右衛門のみ、招提村に与えられていた104石余りを継続して知行した[69]、もしくは八右衛門知行分は片桐氏領になったとされる[6]。
元和5年(1619年)、幕府領の一部が嶋田氏領となり、その時の招提村の内訳は片桐氏領分105石、幕府領分103石、嶋田氏領分615石だったという[6]。幕府領分と嶋田氏領分は寛永10年(1633年)に山城淀藩の永井氏領になり、その後、万治元年(1658年)に旗本永井氏領となった[6]。片桐氏領は延宝年間(1673–1681年)頃に旗本西川氏領となり、貞享元年(1684年)に幕府領となった[6]。貞享4年(1687年)には永井氏領も幕府領になっている[6]。宝永元年(1704年)、招提村は上野沼田藩の本多氏領となり、享保15年(1730年)に幕府領に戻る[6]。明和6年(1769年)、一部が旗本船越氏領となり、文久2年(1862年)に残りが京都守護職役知となった[6]。
文禄年間に720石とされた招提村の村高は、『河内国中支配所料物高輯籙(河内国輯録)』では1,080石余、『天保郷帳』と『旧高旧領取調帳』では1,190石余とされている[70]。
近世初期の招提村では新田開発が盛んに行われた[71]。居村周辺の空閑地の開拓や、本田畑から地続きに開発する切添の形で耕地が拡大していき、林中・山林・谷かた・道上・南へき・下田ぢりなどの小字名が成立している[71]。安永年間(1772–1781年)になると、新たに耕地を開発する余地が少なくなっており、村方は開発に対して消極的な姿勢を示すようになっていた[72]。安永6年(1777年)、招提村内にある地蔵池の開発が計画され、幕府から招提村に対し村請けで新開するよう命が下されたが、招提村はそれに反対し、最終的に幕府の求める田畑への開墾でなく雑木畑にするなどの形で妥協が成立している[73]。また、安永9年(1780年)には、字船橋川や字車谷川における村請けでの芝地開発の中止を求め、招提村は代官所に願書を提出している[72]。
招提村における農業生産の内訳は、明和3年(1766年)の時点で稲作が75.6%、綿作が8.9%、雑毛作が15.5%である[74]。それ以降の招提村の状況は幕府領についてしか判明しないが、幕府領の大方[注釈 8]では、天明8年(1788年)の時点で稲作が71.3%、綿作が13.0%、雑毛作が15.7%、弘化元年(1845年)の時点で稲作77.2%、綿作15.5%、雑毛作7.3%だった[74]。招提村における雑毛作の内訳は、延享元年(1744年)の時点で、大豆・大角豆・小豆・大根・黍・粟・稗・三月菜・芋・茶・煙草である[76]。
寛永21年(1644年)の地詰帳によると家数は57軒[7]。文政5年(1822年)の村明細帳では家数104軒、文久3年(1863年)の村明細帳では家数119軒、人数443人だった[7]。
村の神社としては日置天神社がある[7]。寺院としては浄土真宗本派の敬応寺(旧招提道場[19])と、元禄年間(1688–1704年)に創建の浄土宗正念寺がある[7]。
明治以降
1871年(明治4年)、廃藩置県が行われ、招提村含む河内国は堺県の管轄下となった[77]。1881年(明治14年)、堺県が廃止され[78]、招提村は大阪府に所属する[7]。
1889年(明治22年)、町村制が施行され、自治体としての招提村が発足する[79]。
招提村では、1873年(明治6年)に敬応寺に第六十五番小学校(現在の枚方市立殿山第二小学校[80])が開校していたが、役場は当初小学校に置かれていた[7]。1907年(明治40年)、正念寺が仮役場となり、1911年(明治44年)、庁舎が新築された[7]。
幕末の開国以来、日本国外への輸出品として茶の栽培は盛んに行われたが、気候や土質が適していた交野郡・茨田郡・讃良郡においてもそれは同様であった[81]。1884年(明治17年)、茶業組合準則が制定されたのに伴い、交野郡・茨田郡・讃良郡の製茶農家が所属する河北茶業組合が作られた[82]。1887年(明治20年)時点の河北3郡の製茶家戸数は、大阪府全体の過半数を占めていた[82]。1904年(明治37年)、各郡に置かれる茶樹模範園が招提村に設けられており、1913年(大正2年)の時点で招提村の農家200戸のうち185戸が製茶に携わっていた[83]。ただし、大阪府下の製茶のピークは明治12年から21年までの10年間といわれ(『朝日新聞』明治37年4月26日)、招提村の製茶も明治初年から明治10年頃までが最高潮だったとされるため(大正2年の「北河内郡農家副業成績品展覧会報告」)、枚方市域における製茶は明治後期には衰退していたとみられる[84]。なお、大阪府下における製茶は、明和年間(1764年–1772年)に招提村で茶園が開かれ、釜熬茶が製され、茶振講が行われたことから始まったとされている[85]。
1897年(明治30年)、地主と小作人の対立から「敬応寺事件」と呼ばれる事件が起こっている[86]。この年の11月、凶作となったことから招提村の小作人135人が総会を開き、それぞれの地主たちに小作料の減免を求めることとなった[86]。しかし地主はそれを取り合わず、小作人は稲の刈り取りをしないことで地主に対抗する[86]。その後、地主からの呼びかけによって、地主・小作人間の話し合いが敬応寺で行われることとなったが、地主側に有利な小作証文の文言に端を発し、その場にいた地主が暴行を加えられるなどの騒ぎとなった[86]。警官や郡吏らが駆け付けてその場は収まり、その後、地主が小作料の減免を行うということでこの騒動は決着した[86]。この事件の後、小作人は毎年のように減免を求め、明治末に至るまで何度か減免を認めさせている[86]。
1935年(昭和10年)2月11日、招提村と牧野村が合併し、殿山町が発足した[87]。これにより、招提村は殿山町の大字招提となった[7]。
1938年(昭和13年)11月3日、殿山町は枚方町・蹉跎村・川越村・山田村・樟葉村と合併して、新たな枚方町の一部となる[88]。これに伴い、招提は枚方町の大字となる[7]。
枚方市発足後
1947年(昭和22年)8月1日、市制施行により枚方町は枚方市となった[89]。
1955年(昭和30年)以降、枚方市には住宅団地が次々と建てられていった[90]。招提地域では1971年(昭和46年)以降に、招提南町3丁目や招提東町1丁目、招提大谷3丁目に府営住宅や府住宅供給公社の団地が建てられている[91]。
1962年(昭和37年)に住居表示に関する法律が施行されると、枚方市では1965年(昭和40年)から住居表示の実施が始まった[92]。招提では1966年(昭和41年)から徐々に実施され、新たな町名が生まれていった[93]。
枚方市北部では都市計画の一環として、1963年(昭和38年)から1969年(昭和44年)にかけて北部土地区画整理事業が行われていた[94]。これにより、農地の広がる土地134ヘクタールが、道路や下水道、公園などを備えた整然とした区画へと変わっている[95]。この事業で区画整理された場所は、北船橋町と船橋本町1・2丁目、東船橋1・2丁目、招提田近1–3丁目である[94]。
また、高度経済成長期を迎える中で、枚方市は工場の誘致を積極的に行った[96]。1966年(昭和41年)、招提田近・東山地区で中小企業団地が完工し、1970年(昭和45年)には50社がフル操業に入っている[97]。中小企業団地の東側(招提大谷2丁目[98])には公害防止団地の第1号となる枚方鉄工塗装団地が建設され、1969年(昭和44年)にその完工式が行われた[99]。この団地は公害問題がクローズアップされる中、枚方市や寝屋川市、門真市、守口市などの鉄工塗装業者が「公害のない企業団地」を目指して築いたもので、22社[注釈 9]が進出している[100]。
沿革
- 1889年(明治22年) - 町村制施行により、自治体としての招提村が発足[7]。当初は交野郡に属し、1896年(明治29年)から北河内郡に属した[7]。
- 1935年(昭和10年) - 招提村と牧野村が合併し、殿山町が成立[101]。招提村の地域は大字招提となる[101]。
- 1938年(昭和13年) - 殿山町が枚方町の一部となり、招提は枚方町の大字となる[102]。
- 1947年(昭和22年) - 枚方市の大字となる[7]。
- 1966年(昭和41年) - 招提と養父の一部が招提平野町に、招提と船橋の一部が西招提町になる[8]。また、招提の一部を含む養父丘1–2丁目、長尾谷町1丁目が成立する[103]。
- 1968年(昭和43年) - 招提・長尾・津田・船橋・養父・宇山の各一部が招提田近1–3丁目となり、招提の一部が東山2丁目となる[104]。
- 1968年(昭和43年) - 招提の一部が長尾家具町1丁目となる[105]。
- 1975年(昭和50年) - 招提の一部が招提中町1–3丁目、招提東町1–3丁目、招提南町1–3丁目となり、招提・船橋の一部が招提北町1–3丁目に、招提・養父の一部が招提元町1–4丁目となる[7]。また、招提の一部を含む高野道1–2丁目、長尾峠町が成立し、招提田近の一部が高野道1丁目に編入される[106]。
- 1978年(昭和53年) - 招提の一部が長尾西町2丁目、長尾北町1丁目、北山1丁目となる[107]。
- 1980年(昭和55年) - 招提と長尾谷町1丁目の一部が招提大谷1–3丁目となり[105]、招提と田口の一部が田口山1–3丁目となる[108]。
地名の由来
招提という言葉の意味から、伽藍があったためこの名が付いたという説がある(『大阪府全志』)[109][110]。
また『由緒実録』には、寺内建設時に「招提寺内」という銘のある石が発掘されたことから、この地を招提寺内と呼ぶようになったと記される[111]。
馬部隆弘は、元亀元年(1570年)の織田信長朱印状や天正16年(1588年)の長束正家・増田長盛連署奉書などに「しよたい」と書かれていることや、天文24年(1555年)に作成された『牧一宮神田帳』[注釈 10]に「所大」と書かれていることから、元々「しょだい」と読む地名があり、そこに仏教用語の「招提」の字が当てられたとしている[112][注釈 11]。
世帯数と人口
2025年(令和7年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
招提大谷1–3丁目 | 1,441世帯 | 2,963人 |
招提北町1–3丁目 | 122世帯 | 292人 |
招提田近1–3丁目 | 0世帯 | 0人 |
招提中町1–3丁目 | 1,237世帯 | 2,732人 |
招提東町1–3丁目 | 120世帯 | 241人 |
招提平野町 | 496世帯 | 1,023人 |
招提南町1–3丁目 | 2,528世帯 | 4,686人 |
招提元町1–4丁目 | 1,510世帯 | 3,433人 |
西招提町 | 297世帯 | 895人 |
計 | 7,751世帯 | 16,265人 |
学区
市立の小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[114]。
町丁 | 番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
招提大谷1・2丁目 | 全域 | 枚方市立西長尾小学校 | 枚方市立長尾西中学校 |
招提大谷3丁目 | 43・45・46番 | 枚方市立田口山小学校 | |
その他 | 枚方市立西長尾小学校 | ||
招提北町1–3丁目 | 全域 | 枚方市立船橋小学校 | 枚方市立招提北中学校 |
招提田近1–3丁目 | 全域 | ||
招提中町1丁目 | 全域 | 枚方市立平野小学校 | 枚方市立招提中学校 |
招提中町2丁目 | 1–9番 | ||
その他 | 枚方市立招提小学校 | ||
招提中町3丁目 | 全域 | ||
招提東町1–3丁目 | 全域 | ||
招提平野町 | 6–8番 | 枚方市立殿山第二小学校 | 枚方市立第三中学校 |
その他 | 枚方市立平野小学校 | 枚方市立招提中学校 | |
招提南町1丁目 | 全域 | ||
招提南町2丁目 | 19–22番 | ||
その他 | 枚方市立招提小学校 | ||
招提南町3丁目 | 全域 | ||
招提元町1–4丁目 | 全域 | ||
西招提町 | 市道牧野長尾線以南 | 枚方市立殿山第二小学校 | 枚方市立第三中学校 |
その他 | 枚方市立牧野小学校 |
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[115]。
丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
招提大谷1–3丁目 | 76事業所 | 1,467人 |
招提北町1–3丁目 | 26事業所 | 529人 |
招提田近1–3丁目 | 105事業所 | 5,715人 |
招提中町1–3丁目 | 44事業所 | 353人 |
招提東町1–3丁目 | 22事業所 | 282人 |
招提平野町 | 30事業所 | 394人 |
招提南町1–3丁目 | 74事業所 | 429人 |
招提元町1–4丁目 | 61事業所 | 634人 |
西招提町 | 27事業所 | 757人 |
計 | 465事業所 | 10,560人 |
施設
学校
病院
- 松尾医院(招提中町1丁目)[117][118]
- ほしやクリニック(招提中町2丁目)[119][120]
- えだがわ胃腸内科クリニック(招提平野町)[121][122]
- 向山病院(招提元町1丁目)[123][124]
- 永松医院(招提元町2丁目)[125][126]
- 関西記念病院(西招提町)[127][128]
歯科医院
- 神田歯科医院(招提中町2丁目)[129]
- 岩崎歯科医院(招提平野町)[129][130]
- 木村歯科(招提平野町)[129][131]
- ふくはら歯科(招提平野町)[129][132]
- Mデンタルクリニック枚方(招提南町3丁目)[129][133]
- とうかえでの道デンタルクリニック(西招提町)[129][134][135]
寺社
その他
- 枚方招提郵便局(招提平野町)[143]
- 枚方招提団地内郵便局(招提南町3丁目)[144]
- DCM枚方店(招提北町2丁目)[145]
- スーパーストアナカガワ 招提店(招提北町2丁目)[146]
- 業務スーパー 枚方招提店(招提元町2丁目)[147]
- 枚方自動車教習所(招提東町1丁目)[148]
- 枚方バイパスゴルフ(招提東町1丁目)[149]
交通
バス
道路
脚注
注釈
- ^ 各町名とその読み仮名は『角川日本地名大辞典』[8]および郵便局ウェブサイト[3]、丁目については『角川日本地名大辞典』を出典とする[8]。『角川日本地名大辞典』において、これらの地名はいずれも「大字名」でなく「町名」とされている[8]。
- ^ ただし、現在の招提田近は船橋川の北に位置する[11]。
- ^ 『枚方市史』では「寺内村」とされるが[21]、金井年は当初の招提が町的性格を持っていたとして「寺内町」とし[22]、馬部隆弘も「寺内町」と記すため[20]、ここではそれに従う。
- ^ 『由緒実録』によると、片岡正次は河端久吉の子で、母は片岡正久の娘[32]。兄に河端正康がいる[32]。正次は、片岡正久の嫡孫[33]である片岡好貞の婿養子となって片岡家を継いだ[32]。不正確さが指摘される『由緒実録』だが、江戸時代以降の人物については概ね信用できるとされる[34]。
- ^ 野尻治部が招提に入った時期について、小谷利明は永禄2年(1559年)に安見宗房が三好長慶と対立し、河内が三好氏に支配された後とする[45]。
- ^ この奉書の内容は、「普請」のことで申し渡すことがあるため、年寄と郡夫を八尾に出頭させるよう命じるというものである[30]。
- ^ 西川八右衛門以外の5名は、木下猪右衛門、貝塚五兵衛、飯尾兵左衛門、寺町新助、荒川銀右衛門[68]。
- ^ 招提村の幕府領は大方と新方に分かれる[75]。
- ^ 1975年(昭和50年)の時点では25社[98]。
- ^ 牧一宮は現在の片埜神社[10]。
- ^ 肥後細川家臣の小篠家の由緒が記載される『先祖附』(永青文庫所蔵)では「所代」と書かれる[113]。
出典
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関連文献
- 枚方市史編さん委員会 編『新版 楽しく学ぶ枚方の歴史』枚方市、2024年 。32–33頁「枚方の寺内町」、35頁「コラム8 招提」。
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