広島の戦災復興計画とは? わかりやすく解説

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広島の戦災復興計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 19:27 UTC 版)

戦災復興都市計画」の記事における「広島の戦災復興計画」の解説

広島市場合都市計画課の職員はほとんどが原爆死去したが、前日自転車登庁途中チェーン切れて投下当日遅刻余儀なくされた竹重貞蔵課長奇跡的に生き残り丹下健三らが計画携わるまでは一人計画立案する。 竹重は、往時太田川河岸沿いに建物密集していたので、河岸緑地計画し河川沿いを占拠していた罹災者には別途再開発住宅提供し移転させる案を提示した。これは1945年早くも都市計画決定され、このとき川に沿ってかなり広い敷地確保される今日では沿川にはカフェが並ぶまでの空間になったが、実際1970年代入って当時中国地方建設局太田川工事事務所東京工業大学中村良夫研究室基町地区河川環境整備依頼するまで一切整備成されておらず、30年以上眠ったままだった。 復興計画案のうち、土地利用計画公園立地道路計画復興院派遣した丹下健三武基雄中心とする建築家スタッフ計画したのである丹下スタッフ広島市を主に担当し浅田孝大谷幸夫、そして石川栄耀息子石川允参加し、武スタッフ呉市を主に担当し大林新、安田臣吉阪隆正参加したスタッフ広島市1946年昭和21年)の夏に、呉市秋に現地入りし、資料不足の中で調査分析し報告書都市計画図作成された。広島市計画は、かつて軍都としての広島歩み分析したうえで山陽工業地帯中核都市として再生させるという展望示し、そのための計画としていた。道路計画については、すでに市が戦中防火帯として空地化している跡地計画している幅員100m道路中心に位置する中島町三角地官公庁街にしこれに向かって駅前から市街地斜めに抜け幹線道路計画した土地利用計画では特別地区として官公庁文教港湾をたて、工業地区として海岸線重化学工業地帯海岸公園配し商業地区先の官公庁街を囲む中央商業周辺商業地区区分し経済効率化図り住居地区には中心となる地区設定しているが、案は市の有力者からなる審議会では幹線道路認められず、また三角地官公庁街でなく公園設定されたなどのほかは概ね採用となる。 また丹下らは、暁設計なる建築設計事務所広島での作業拠点とした。この事務所帝国軍部隊建築技術将校だった人物らと村田正柴田実らが1946年の春ごろから広島設立焼け残った福屋デパートの1室を借りてまちづくり参画する。この事務所に、横浜高工から逓信省営繕部入り、後満州国郵政総局建築設計従事していた河内義就参加しバラック建の朝日新聞広島支局レンガチムニー設置築地小劇場モデル児童文化会館舞台改造市民病院厚さ4センチコンクリート庇に挑戦したりした。この後建築設計事務所1948年昭和23年)まで数社でき、同年広島建築家協会発足する。また広島市建築技師藤本初夫は壁式コンクリート挑戦し昭和町平和アパート竣工させるなど、徐々に活況づく。 その間広島市都市復興に対して国の特段支援を仰ぐため、木原七郎浜井信三市長国庫補助財政援助占領軍総司令官政府国会にたいして要請した成果なく、1949年昭和24年)に特別立法誓願運動展開し広島平和記念都市建設法制定させる。第3条には国と地方公共団体都市建設事業に対してできる限り援助を行うとし、第4条国有財産法28条の規定かかわらず費用を負担する自治体広島市)に対し普通財産譲与することができると定め特段措置を国に義務付ける結果となる。これを受け国は旧軍用地小学校病院等の用地として約34.5ヘクタール無償譲与し、1949年度補正予算補助金追加し1950年昭和25年)度予算戦災都市のそれと別枠予算確保している。これに対し、ほかの戦災都市補助率が引き下げられたため国に対し抗議がだされ、もとの率にもどされている。 また国直事業として100メートル広幅道路平和大橋西平和大橋かけられている。この100メートル道路は、当初当時渡辺市長選挙公約として市営住宅建設打ち出し当選したのが助役説得翻意させた。また、並木緑地形成市民参加実現したのである平和大橋西平和大橋1950年広島市米国対日援助見返資金特別会計活用して計画当時発足したばかりであった建設省中国四国地方建設局受託施工することになる。橋の名称は市が街路名と共に一般公募したもので、高欄デザイン建設省県内行政学識者等で構成される平和大橋西平和大橋高欄デザイン研究協議会」で検討され、のちイサム・ノグチ依頼される形式GHQによって径間割や形式指示され通行路面部分等はノグチから案が届く前に着工される。高欄図面化には東京大学丹下健三研究室協力1951年昭和26年ノグチ来日した折、ベニヤ板使って原寸模型切り出され実物大模型制作して現地設置し1953年昭和28年)に建設省直営施工され竣工したコンクリート型枠製作には1本の木材2つ割り、中を数種類のかんなで仕上げる高度な技術要し半円部分造船所協力してもらったという。施工当たって高欄間柱手すりはプレキャスト製作し床版立てこんで鉄筋緊結し、場所打ちコンクリート接合している。

※この「広島の戦災復興計画」の解説は、「戦災復興都市計画」の解説の一部です。
「広島の戦災復興計画」を含む「戦災復興都市計画」の記事については、「戦災復興都市計画」の概要を参照ください。

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