広島の戦災復興計画
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「戦災復興都市計画」の記事における「広島の戦災復興計画」の解説
広島市の場合は都市計画課の職員はほとんどが原爆で死去したが、前日自転車で登庁途中、チェーンが切れて投下当日は遅刻を余儀なくされた竹重貞蔵課長が奇跡的に生き残り、丹下健三らが計画に携わるまでは一人で計画立案する。 竹重は、往時の太田川河岸沿いに建物が密集していたので、河岸緑地を計画し、河川沿いを占拠していた罹災者には別途再開発住宅を提供し、移転させる案を提示した。これは1945年に早くも都市計画決定され、このとき川に沿ってかなり広い敷地が確保される。今日では沿川にはカフェが並ぶまでの空間になったが、実際は1970年代に入って当時の中国地方建設局太田川工事事務所が東京工業大学の中村良夫研究室に基町地区の河川環境整備を依頼するまで一切の整備が成されておらず、30年以上眠ったままだった。 復興計画案のうち、土地利用計画と公園立地、道路計画は復興院が派遣した丹下健三と武基雄を中心とする建築家スタッフが計画したものである。丹下スタッフは広島市を主に担当し浅田孝、大谷幸夫、そして石川栄耀の息子石川允が参加し、武スタッフは呉市を主に担当し大林新、安田臣、吉阪隆正が参加した。スタッフは広島市は1946年(昭和21年)の夏に、呉市は秋に現地入りし、資料不足の中で調査分析し、報告書と都市計画図が作成された。広島市の計画は、かつて軍都としての広島の歩みを分析したうえで山陽工業地帯の中核都市として再生させるという展望を示し、そのための計画としていた。道路計画については、すでに市が戦中に防火帯として空地化している跡地に計画している幅員100mの道路の中心に位置する中島町三角地を官公庁街にしこれに向かって、駅前から市街地を斜めに抜ける幹線道路を計画した。土地利用計画では特別地区として官公庁と文教と港湾をたて、工業地区として海岸線に重化学工業地帯と海岸公園を配し、商業地区は先の官公庁街を囲む中央商業と周辺商業の地区に区分し市経済の効率化を図り、住居地区には中心となる地区を設定しているが、案は市の有力者からなる審議会では幹線道路は認められず、また三角地は官公庁街でなく公園に設定されたなどのほかは概ね採用となる。 また丹下らは、暁設計なる建築設計事務所を広島での作業拠点とした。この事務所は帝国軍暁部隊の建築技術将校だった人物らと村田正、柴田実らが1946年の春ごろから広島に設立。焼け残った福屋デパートの1室を借りてまちづくりに参画する。この事務所に、横浜高工から逓信省営繕部に入り、後満州国郵政総局で建築設計に従事していた河内義就が参加し、バラック建の朝日新聞広島支局にレンガのチムニー設置、築地小劇場をモデルに児童文化会館の舞台を改造、市民病院に厚さ4センチのコンクリート庇に挑戦したりした。この後建築設計事務所は1948年(昭和23年)まで数社でき、同年広島建築家協会が発足する。また広島市の建築技師藤本初夫は壁式コンクリートに挑戦し、昭和町平和アパートを竣工させるなど、徐々に活況づく。 その間広島市は都市復興に対して国の特段の支援を仰ぐため、木原七郎、浜井信三市長が国庫補助と財政援助を占領軍総司令官や政府、国会にたいして要請したが成果なく、1949年(昭和24年)に特別立法の誓願運動を展開し、広島平和記念都市建設法を制定させる。第3条には国と地方公共団体が都市建設事業に対してできる限りの援助を行うとし、第4条で国有財産法第28条の規定にかかわらず費用を負担する自治体(広島市)に対し普通財産の譲与することができると定め、特段措置を国に義務付ける結果となる。これを受け国は旧軍用地を小学校や病院等の用地として約34.5ヘクタールを無償譲与し、1949年度に補正予算で補助金を追加し、1950年(昭和25年)度予算で戦災都市のそれと別枠で予算確保している。これに対し、ほかの戦災都市の補助率が引き下げられたため国に対し抗議がだされ、もとの率にもどされている。 また国直轄事業として100メートル広幅員道路の平和大橋、西平和大橋がかけられている。この100メートル道路は、当初当時の渡辺市長は選挙公約として市営住宅建設を打ち出し当選したのが助役の説得で翻意させた。また、並木緑地形成は市民の参加で実現したものである。 平和大橋、西平和大橋は1950年、広島市が米国対日援助見返仕資金特別会計を活用して計画。当時発足したばかりであった建設省中国四国地方建設局が受託施工することになる。橋の名称は市が街路名と共に一般公募したもので、高欄のデザインは建設省や県内の行政と学識者等で構成される「平和大橋・西平和大橋高欄デザイン研究協議会」で検討され、のちイサム・ノグチに依頼される。橋の形式はGHQによって径間割や桁形式を指示され、通行路面部分等はノグチから案が届く前に着工される。高欄の図面化には東京大学丹下健三研究室が協力、1951年(昭和26年)ノグチが来日した折、ベニヤ板を使って原寸模型が切り出され、実物大の模型を制作して現地に設置し、1953年(昭和28年)に建設省直営で施工され、竣工した。コンクリート型枠製作には1本の木材を2つに割り、中を数種類のかんなで仕上げる高度な技術を要し、半円球部分は造船所に協力してもらったという。施工に当たっては高欄間柱と手すりはプレキャスト製作し、床版に立てこんで鉄筋を緊結し、場所打ちコンクリートで接合している。
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