広島への原爆投下 - 死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 11:22 UTC 版)
「園井恵子」の記事における「広島への原爆投下 - 死去」の解説
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 桜隊が被爆した場所を2015年現在の地図に示したもの。赤○が被爆場所、☓が爆心地、上の川が京橋川、その上が比治山。赤○の下側の道(並木通り)とその右側を縦断する大通り(平和大通り)との交差点付近に移動演劇さくら隊殉難碑が建立された。 爆心地付近から東南方向を望む。写真中央付近を横断する道が現在の並木通りで、そこに唯一立つ建物から一つ右側を縦断する道の突き当り向こう側の地が、事務所があった場所。その向こうの大きな川が仲が救助された京橋川で、その向こうに園井と高山が逃げ込んだ比治山がある。 園井が神戸から戻った翌日の8月6日午前8時15分、アメリカ軍占領下のテニアン島基地より飛来したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が広島上空で原子爆弾を投下。そのとき桜隊の面々は朝食を終えて各自の部屋に戻っており、園井は中井家からの持参品を皆で食べようと、盆を手に廊下を歩いていた。 爆発の衝撃により園井は廊下から庭に放り出されて気を失ったが、すぐに意識を取り戻す。下敷きになっていた壁から這い出すと、近くに高山象三(高山徳右衛門の息子)も倒れていた。高山は足先に軽傷、園井は全くの無傷であり、ふたりは約1km離れた比治山へ避難した。ほかに丸山定夫はひとり比治山に向かったが、途中で倒れてトラックに拾われ、傷病者の臨時収容所に運び込まれた。また、仲みどりも自力で事務所から脱出したが、すぐに体調が悪化し、京橋川の水中で難儀していたところを船舶部隊に救助され、のち東京に帰され東京帝国大学付属病院に入院した。ほかの隊員5名はこの時点で行方不明となり、後日、崩壊し全焼した事務所跡から白骨となって発見された。なお、爆心地は事務所から西方約750メートルの位置であった。 比治山で一夜を過ごした園井と高山は、翌日に海田市町の知人宅へ赴き8日昼まで過ごしたのち、鉄道が復旧したことを知って神戸に戻り、中井夫妻と再会した。このときの園井は、顔も服も薄汚れ、足元は地下足袋と男物の短靴を片方ずつ履いた「乞食のような姿」で、志づが一見して園井とは分からなかったほどだったという。後年、志づが稲垣浩に送った手紙によれば、園井は「母さん、助かったのよ、助かったのよ」と言って志づに抱きつき、周囲も安堵し喜びあっていた。 翌日から園井は衰弱著しかった高山の看病に当たったが、そのうち自身にも放射線障害の兆候があらわれはじめた。8月15日に終戦が伝えられると、園井の安否を気づかい中井家を訪れていた内海明子(宝塚の後輩、芸名:加古まち子。脚本・演出家の内海重典と結婚)に、「これで思いっきりお芝居ができるわ」と話し、目を輝かせていたという。17日には母・カメに宛てて近況報告と向後の再起を誓う手紙を出したが、これが絶筆となる。 目黒・五百羅漢寺にある桜隊原爆殉難碑。揮毫は徳川夢声による。 広島平和大通りにある移動演劇さくら隊殉難碑の側面。名前が刻まれている。 しかし園井の容体は悪化し、少々の髪が抜けるなどが前夜(18日)夜頃、高熱を19日に発し、その後、皮下出血、下血といった放射線障害の症状が次々と顕在化し、急激に衰弱。この19日に八田元夫が園井の居所を探り当てて訪ねてきた。このとき園井はガンさん(丸山定夫)の安否を知りたがったが、返事に窮する様子から亡くなったことを悟ったようだった。 20日には園井は床につき動くことができなくなった。同日、高山象三が死去。翌21日、内海明子が氷で冷やしたガーゼを園井の顔に当てた際、「あー、気持ちいいわ」と呟いたのが最後の言葉となる。同日夕刻、内海重典が宝塚歌劇団からの退職金を枕元に届ける。園井はそれを眼前にかざしたがすぐに意識を失い、中井夫妻、内海夫妻、象三の様子を見に来ていた高山夫妻、桜隊演出家の八田元夫が見守る中で息を引き取った。満32歳没。16日には厳島で丸山定夫が、24日は東京で仲みどりが死去し、桜隊で被爆した9名全員が1カ月以内に命を落とす結果となった。 園井の遺体は翌日荼毘に付され、9月1日に合同の告別式が行われたのち、岩手県盛岡市内の恩流寺に葬られた。1952年には東京都目黒区の五百羅漢寺に桜隊の原爆殉難碑が建立され、1959年には広島市の平和大通りにも同様のものが建立された。五百羅漢寺の碑には隊員の遺骨も少量ずつ納められている。
※この「広島への原爆投下 - 死去」の解説は、「園井恵子」の解説の一部です。
「広島への原爆投下 - 死去」を含む「園井恵子」の記事については、「園井恵子」の概要を参照ください。
- 広島への原爆投下 - 死去のページへのリンク