京大調査班の遭難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 23:34 UTC 版)
京都帝国大学では、広島への原爆投下直後から理系学部の教官が個別に現地に赴き被爆状況の調査や被爆者の治療に当たっていたが、敗戦後の9月中旬になって京大はこの調査を全学的・組織的に進めるための「原爆災害総合研究調査班」を設置し、真下俊一・杉山繁輝医学部教授らを派遣した。調査班は大野陸軍病院で調査研究に従事していたが、上記の土石流の直撃を受け真下教授と大久保忠継助教授、講師2名、嘱託1名、学生2名、理学部から参加していた講師1名・大学院生1名、化学研究所の助手1名の合計10名が死亡、さらにその後杉山教授が死去した。 殉職した教職員・学生の大学葬は10月11日に挙行(京大での大学葬は1938年(昭和13年)在任中に死去した濱田耕作学長以来2度目である)され、犠牲者の一人である理学部大学院生・花谷暉一(享年24)の遺族は学生の福利厚生のための施設を京大に寄贈した。この木造建物は「花谷会館」と呼ばれ、喫茶店などが置かれたのち京都大学生活協同組合の本部が所在していたが、老朽化のため生協本部は2016年に移転した。また,会館の建物は2021年8月25日までに解体撤去された。
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