外務省の機械式暗号の歴史
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「日本の機械式暗号」の記事における「外務省の機械式暗号の歴史」の解説
外務省における機械式暗号の歴史は、同じ内容の電文を新旧の暗号で電信するというミスを繰り返した歴史である。旧暗号の解読によって原文が判明したので、新暗号に対して暗号文と原文との対照をする解読が可能になった。 1921年海軍艦艇の軍縮に関するワシントン軍縮会議が開かれる。米国務省情報部、MI-8(俗称:ブラックチェンバー)が日本の外交電報(Jp暗号)を解読。これは簡単なコードブックであった。 1928年ロンドン軍縮会議に備え、海軍では機械暗号化計画を立てる。暗号機の試作と製造は元海軍大尉である平尾誠一が経営する工場で行われた。 1930年ロンドン軍縮会議では陸海軍および外務省がクリハ式と同じ原理の試作暗号機を使用。ただし製作できた暗号機械はわずかに9台(全権2台、海軍側随員2台、全権同予備1台、外務省海軍局各2台)で米仏伊大使館には供用できなかった。したがって、外務大臣と全権間の電報の大部が在米大使宛てに旧式暗号で転電された。 1931年皇紀2591年に海軍は九一式印字機として制式化、外務省は暗号機A型と命名。米陸軍はレッド暗号と呼ぶ。7月22日、ブラックチェンバーの解読活動が東京日日新聞に掲載される。 1932年九一式印字機の開発者である柿本中佐と田辺技師への叙勲用上奏文が作成される。プラグボードである「文字順序破壊装置」とクリハ暗号機を模倣した「文字跳躍装置」について「外国品にも其の類例を見ず全く同官の独創的考案なり」と評価した(海電機密第四二号 聯盟軍縮会議用暗号機械ニ関スル件) 1934年英国がレッド暗号の解読に成功。 1935年海軍技術研究所が次世代暗号機の設計を開始。設計主任は田辺一雄。開発生産は海軍技術研究所電気研究部六課内で行った。関係者は特別バッジを胸につけ、作業場には特別警備の守衛を配置、出入り口や窓には警報装置を設けた。米陸軍がレッド暗号の解読に着手。英国は"J machine"と呼ばれるレッドの模造機を作成する。 1936年米陸軍がレッド暗号の模造機を完成。 1937年皇紀2597年に米軍がパープルと呼ぶ暗号機(パープル暗号)が完成。海軍は九七式印字機、外務省は暗号機B型(通称 九七式欧文印字機)と命名。独外務省の解読機関であるPers Zはレッド暗号文を集めて解読に着手する。 1938年Pers Zはレッドがクリハ式と似ている事に気付く。模造機は8月に完成し9月には開始位置符号も解明。 1939年2月、パープルは重要な海外公館であるワシントン、ベルリン、ロンドン、パリ、モスクワ、ワルシャワ、ローマ、ジュネーヴ、ブリュッセル、アンカラ、上海、北京で運用を開始。一部の在外公館ではレッドが引き続き使用されていた。米陸軍がパープルの登場に気付き、解読に着手。米情報部がニューヨーク総領事館から句読点コードを盗み出す事に成功。 1940年9月、パープル暗号の解読作業が転換期を迎える。 1941年年明けに米陸軍はパープルの模造機を完成。41年だけで227通のうち223通の解読に成功。 4月、大島浩駐独大使はドイツから「駐米大使宛の外交暗号が米国務省に解読されている」と警告を受ける。 8月、在外公館でのレッド暗号の運用が終了。 12月、真珠湾攻撃、対米覚書文書の手交が遅れた。 12月末、外遊中の英領ビルマ自治政府のウー・ソオ首相が、在リスボン日本公使館へ独立支援を要請する。公使館より外務省への暗号電が米軍に解読され、ウー・ソオは翌年1月に英国官憲に逮捕された。 1943年11月、ベルリン→東京: フランス戦線の視察報告が解読される(ノルマンディー上陸作戦に貢献。) 1944年8月、ベルリン→東京: 大島大使とアルベルト・シュペーアの軍需生産に関する会談報告が解読される。 秋頃、陸軍参謀本部・暗号班の釜賀一夫少佐が九七式欧文印字機について学理検討を行った結果、極めて危険と判断する。 1945年1月、ハノイ→東京: ウラン鉱石採掘についての報告が解読される。 5月、ベルリン陥落の際に米軍は日本大使館からパープル暗号機のスイッチ部分を捕獲。これが現存する唯一のオリジナルとなった。 7月、モスクワ→東京: 佐藤大使によるソ連仲介の和平工作についての報告が解読される。 8月、日本敗戦。
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