反対・拒否
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第三四三海軍航空隊では特攻を出していない。司令の源田実大佐は空戦による制空権奪回を目指し特攻の指導をせず、空中特攻の命令にも司令自らが特攻することを決めている。また、特攻の打診があった際も、行けと言ってくる参謀が最初に来るならやると上に伝えてほしいという飛行長志賀淑雄少佐の意見に源田司令も賛同している。 歴戦の戦闘機指揮官の戦闘303飛行隊の飛行長岡嶋清熊少佐は、フィリピンで特攻を推進する大西ら第一航空艦隊司令部に強く反発し、「特攻は邪道である。内地に帰り再編成の上、正々堂々と決戦をすべきである。自分の隊からは一機の特攻も出させぬ」と頑張り、士官室で全員特攻を唱える第201海軍航空隊飛行長の中島正少佐と激論を交わしていたという。岡嶋は「戦闘機乗りというものは最後の最後まで敵と戦い、これを撃ち落として帰ってくるのが本来の使命、敵と戦うのが戦闘機乗りの本望なのであって、爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道だ」という信念の持ち主であり、上層部のなかには岡嶋を国賊と呼ぶ者もいたという。その後、岡嶋率いる戦闘303飛行隊は日本本土に転戦し、主に特攻機の護衛任務で戦い続けて、沖縄戦中に89名の戦闘機搭乗員のうち38名を失ない戦死率は43%にも上った。これは特攻隊として編成された第二〇五海軍航空隊の103名の特攻隊員中戦死者35名(戦死率34%)と比較しても、護衛任務に従事した戦闘303飛行隊の戦死率の方が高くなっているほどであった。戦後に岡嶋は「参謀が特攻の話をしたときです。わたしは拳銃を握っていた。『この野郎、ぶち殺してやろう』と思いました。戦死を拒みはしないが、搭乗員を虫けらのように言うのがたまりません。その男は特攻に出ないのに」と振り返っている。 特攻の志願が募られた際、岩本徹三海軍少尉は「死んでは戦争は負けだ。戦闘機乗りは何度も戦って相手を多く落とすのが仕事だ。一回の体当たりで死んでたまるか。俺は否だ。」と志願しなかった。203空の飛行長進藤三郎少佐も司令に反対意見を述べた[信頼性要検証]。第三四一海軍航空隊の飛行隊長藤田怡与蔵少佐も新鋭機の部隊であることを理由に特攻に反対した。 芙蓉部隊の指揮官の美濃部正少佐は、夜間攻撃を重視し、練習機で特攻を行う計画に反対したとされる。しかし、美濃部は特攻そのものを拒否をしていたわけではなく、硫黄島の戦いや沖縄戦で度々部下に特攻を命令して戦死者も出している。美濃部は、対敵機動部隊の戦術として「敵の戦闘機隊が十分な行動ができない未明に、まず芙蓉部隊機が敵空母甲板上の敵機をロケット弾で攻撃し、発艦前に打撃を与えて友軍特攻機突入を援護する。最後には、芙蓉部隊機も搭乗員諸共敵空母甲板上に特攻し、敵空母甲板上の艦載機を一掃する。」との特攻戦術を考案しており、終戦間際に特攻を計画した際には自ら指揮官として出撃する予定であった。 陸軍航空隊初の特別攻撃隊となった万朶隊のうち、佐々木友次伍長が敵艦に体当たりせずに通常攻撃を行い、ミンダナオ島のカガヤン飛行場に生還している。この後も帰還を続ける佐々木に第4航空軍第4飛行師団参謀長の猿渡篤孝大佐が「爆撃で敵艦を沈めることは困難だから、体当たりをするのだ。体当たりなら確実に撃沈できる」と次回出撃時は確実に体当たりするよう諭したが、佐々木は「私は必中攻撃で死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」と反論している。上官に対する明白な反抗で本来であれば軍法会議行きでもおかしくなかったが、この時はさらに諭されただけで不問とされている。佐々木はこの後も合計9回出撃を命じられたとも言われるが、敵艦に突入することなくいずれも生還している。航空機を失った第4航空軍の他の操縦士は台湾に撤退したが、公式には戦死扱いであった佐々木には台湾への撤退許可は出なかったため、ルソン島山中に立てこもり終戦を迎えている。佐々木は特攻しなかった理由として「日露戦争で金鵄勲章を受賞した父親や、戦死した万朶隊隊長岩本大尉の死ぬなという言葉が支えになった」「乗機(九九式双発軽爆撃機)が乗りやすい飛行機で、これに乗って自爆はしたくないという気持ちがあった」と述べている。 しかし、戦後に第4飛行師団参謀の辻秀雄少佐が語ったところによれば、最初の出撃で帰還した佐々木への対応について、佐々木が所属した第4飛行師団では判断がつかずに第4航空軍に協議したところ、第4航空軍参謀より「行って、それが命中して効果をあげたんなら、もう1回やらせてもいいんじゃないか」という提案があり、その後も佐々木が帰還を繰り返すと、「もう1回やるんだから、2回でも3回でもやれば、それだけ戦果をあげるんだから、それだけこっちに利があるんじゃないか」「こういう風な状況になったんだから、やむを得ない。彼(佐々木)にいい死に場所を与えようじゃないか」ということで、第4航空軍司令部が佐々木の帰還を容認していた。この第4航空軍の佐々木に対する方針は、司令官の富永恭次中将の裁量であったとも言われており、富永は佐々木が特攻出撃から帰投するたびに「おお、佐々木、よく帰ってきたな」「よくやった。これぞという目標をとらえるまでは、何度でも帰ってこい。はやまったりあせってはいかん」と親しげに声かけをし、「昼飯を一緒に食べようと思ったら、他に予定があるそうだ。せっかくだから、お土産を進呈しよう」と上機嫌で缶詰を手渡したりと佐々木に好意的であり、また出撃前には特別に一房のバナナを渡して佐々木を感激させている。また、特攻に批判的で佐々木に生還を指示したとも言われる隊長の岩本であるが、報道班員には「万朶隊の攻撃はたった1度です。1度で必ず成功しなければなりません。死ぬことは、そんなにやさしいものではありません」と特攻を覚悟した発言をしている。 陸軍飛行第62戦隊隊長石橋輝志少佐は、大本営作戦課から第62戦隊を特攻部隊に編成訓練するよう要請されると「部下を犬死にさせたくないし、私も犬死にしたくない」と拒否した。石橋少佐はその日のうちに罷免された。この後、第62戦隊は特攻専用機に改造された四式重爆撃機を装備して特攻攻撃に借り出されている。
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