北海道における活動とは? わかりやすく解説

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北海道における活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 11:14 UTC 版)

石川啄木」の記事における「北海道における活動」の解説

一禎の出奔先立ち函館文芸結社苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)の同人松岡堂より原稿依頼があり、1907年1月発行され機関誌『紅苜蓿』(べにまごやし)創刊号に詩3編を寄稿する。『紅苜蓿』は地方文芸誌としては異例評判得て創刊号200部を完売し続刊するが、同人はいずれも他に定職持っていたことから編集人材の不足に苦慮していた。一方啄木は一禎の去った渋民での生活に見切り付けて4月1日小学校辞表出し松岡連絡取って移住相談をした。辞表に対して助役学務委員から留任勧告受けたものの、4月19日小学校排斥ストライキ高等科児童指示する事件起こし4月21日免職処分受けた苜蓿社の側でも、詩人として名声のある啄木が来ることを歓迎した5月4日渋民出発して5日函館到着する渡道は、小樽在住次姉トラの夫・山本千三郎(当時北海道鉄道中央小樽駅長で同年7月鉄道国有法帝国鉄道庁となる)が、ミツ引き取ることを申し出たことも一因であった函館啄木松岡下宿先寄寓する一方妻子盛岡実家、母は渋民隣村に住む知人預け単身生活だった。5月11日から5月末日まで、苜蓿同人沢田信太郎の世話により函館商工会議所臨時雇い生計立てる。6月苜蓿同人である吉野口利きで、函館区弥生尋常小学校代用教員となった7月7日妻子呼び寄せたのを機に下宿出て新居に移る。8月4日には母を迎えて一家揃った。同じ頃にミツ小樽から函館に来たことから、家計足しとして代用教員在職のまま函館日日新聞社遊軍記者となる(日記8月18日編輯局入ったとある)。新聞には自身選者歌壇設けたり随筆連載するなど仕事打ち込み、『紅苜蓿』の編集にも熱中した苜蓿メンバー知遇深め中でも宮崎郁雨とは死去前年まで交友を持つこととなる。 しかし、8月25日函館大火により勤務先小学校新聞社がともに焼失する啄木教員在職のままだったが、無資格者を整理するという噂が出た)は再び生活の糧を失う苦境に立たされた。この事態苜蓿同人だった向井太郎札幌移住していた)が職を探し友人北門新報記者小国露堂を通じて校正係に採用が決まる。9月13日単身函館発って翌日札幌到着し16日から勤務した。この在勤時に啄木小国から社会主義について説かれそれまでの「冷笑」的態度から「或意味に於て賛同し得ざるにあらず」と記した。その矢先小国から新たに創刊され小樽日報記者への誘い受けて到着から2週間満たない9月27日小樽移った小樽には啄木先んじて妻子ミツ次姉宅に移っており、啄木加わって再び一家揃った。まもなく啄木妻子借家転居している。小樽日報では同僚野口雨情がいた。ともに三面受け持った情には好感持ち親交を結ぶ。啄木とともに主筆排斥運動起こす情は前に勤めていた札幌新聞社でも主筆とは上司部下の関係だった)。しかし、主筆側の巻き返し一人退社するになった啄木一度情が悪意持っている誤解したが、情が謝罪した後に退社した一方自分三面主任据えられたことで、主筆への反感強めた主筆そのあと啄木運動解任されている。後任編集長には、北海道庁入庁して札幌移っていた沢田信太郎と再会したのを機に就任依頼して快諾される。 編集長替わった小樽日報啄木仕事励んだが、営業成績上がらない小樽日報将来疑問視し、小国から札幌新し新聞できそうだとの誘い受けて札幌通った。これが社内事務長(後に衆議院議員となる中野寅吉当時小林姓)との間で紛争を生み、暴力ふるわれたことで12月16日退社する1908年明治41年1月4日小樽市内の「社会主義演説会」で、西川光二郎らの講演聞く一方職探し難航札幌新聞はできる気配がなかった)、編集長沢田北海道議会議員小樽日報社長釧路新聞現在の釧路新聞社とは無関係現在の北海道新聞社社長である白石義郎斡旋依頼し啄木才能買っていた白石計らい釧路新聞への就職が決まる。家族小樽残して1月19日釧路に向け出発した1月21日到着すると、事実上編集長主筆別にいた)として紙面任され、筆を振るって読者増やした取材のために花柳界出入りして芸妓の小奴と親交を結び、また初め習慣的に飲酒をした。 しかし、中央文壇から遠く離れた釧路記者生活続けることに焦燥募らせ釧路離れて創作生活に向かうことを決意する3月20日から病気称して欠勤し28日社長白石から病気治らないのかという電報受けて釧路を去ると決める。4月5日釧路を後にして海路函館行き函館日日新聞勤めて上京費用稼ごう考えていた。再会した宮崎郁雨啄木からこの考え聞くと、その創作意欲報いよう上京資金用意し妻子のための家を函館市内に用意した啄木4月24日単身横浜行きの船で旅立ち、約1年間北海道生活に別れ告げた

※この「北海道における活動」の解説は、「石川啄木」の解説の一部です。
「北海道における活動」を含む「石川啄木」の記事については、「石川啄木」の概要を参照ください。

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