北海道における活動
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一禎の出奔に先立ち、函館の文芸結社・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)の同人松岡蕗堂より原稿の依頼があり、1907年1月に発行された機関誌『紅苜蓿』(べにまごやし)創刊号に詩3編を寄稿する。『紅苜蓿』は地方文芸誌としては異例の評判を得て創刊号200部を完売して続刊するが、同人はいずれも他に定職を持っていたことから編集人材の不足に苦慮していた。一方啄木は一禎の去った渋民での生活に見切りを付けて4月1日に小学校に辞表を出し、松岡に連絡を取って移住の相談をした。辞表に対して助役や学務委員から留任勧告を受けたものの、4月19日に小学校長排斥のストライキを高等科の児童に指示する事件を起こし、4月21日に免職の処分を受けた。苜蓿社の側でも、詩人として名声のある啄木が来ることを歓迎した。 5月4日に渋民を出発して5日に函館に到着する。渡道は、小樽在住の次姉トラの夫・山本千三郎(当時北海道鉄道中央小樽駅長で同年7月に鉄道国有法で帝国鉄道庁となる)が、ミツを引き取ることを申し出たことも一因であった。函館で啄木は松岡の下宿先に寄寓する一方、妻子は盛岡の実家、母は渋民の隣村に住む知人に預ける単身生活だった。5月11日から5月末日まで、苜蓿社同人の沢田信太郎の世話により函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てる。6月、苜蓿社同人である吉野白村の口利きで、函館区立弥生尋常小学校の代用教員となった。7月7日に妻子を呼び寄せたのを機に下宿を出て新居に移る。8月4日には母を迎えて一家が揃った。同じ頃にミツも小樽から函館に来たことから、家計の足しとして代用教員在職のまま函館日日新聞社の遊軍記者となる(日記に8月18日に編輯局に入ったとある)。新聞には自身が選者の歌壇を設けたり随筆を連載するなど仕事に打ち込み、『紅苜蓿』の編集にも熱中した。苜蓿社メンバーと知遇を深め、中でも宮崎郁雨とは死去前年まで交友を持つこととなる。 しかし、8月25日の函館大火により勤務先の小学校・新聞社がともに焼失する。啄木(教員は在職のままだったが、無資格者を整理するという噂が出た)は再び生活の糧を失う苦境に立たされた。この事態に苜蓿社同人だった向井永太郎(札幌に移住していた)が職を探し、友人の北門新報記者・小国露堂を通じて校正係に採用が決まる。9月13日に単身で函館を発って、翌日札幌に到着し、16日から勤務した。この在勤時に啄木は小国から社会主義について説かれ、それまでの「冷笑」的態度から「或意味に於て賛同し得ざるにあらず」と記した。その矢先、小国から新たに創刊される小樽日報記者への誘いを受けて、到着から2週間に満たない9月27日に小樽に移った。小樽には啄木に先んじて妻子とミツが次姉宅に移っており、啄木も加わって再び一家が揃った。まもなく啄木と妻子は借家に転居している。小樽日報では同僚に野口雨情がいた。ともに三面を受け持った雨情には好感を持ち、親交を結ぶ。啄木は雨情とともに主筆の排斥運動を起こす(雨情は前に勤めていた札幌の新聞社でも主筆とは上司部下の関係だった)。しかし、主筆側の巻き返しで雨情一人が退社する形になった。啄木も一度は雨情が悪意を持っていると誤解したが、雨情が謝罪した後に退社した一方、自分が三面の主任に据えられたことで、主筆への反感を強めた。主筆はそのあとに啄木の運動で解任されている。後任の編集長には、北海道庁に入庁して札幌に移っていた沢田信太郎と再会したのを機に就任を依頼して快諾される。 編集長が替わった小樽日報で啄木は仕事に励んだが、営業成績が上がらない小樽日報の将来を疑問視し、小国から札幌に新しい新聞ができそうだとの誘いを受けて札幌に通った。これが社内の事務長(後に衆議院議員となる中野寅吉、当時は小林姓)との間で紛争を生み、暴力をふるわれたことで12月16日に退社する。 1908年(明治41年)1月4日、小樽市内の「社会主義演説会」で、西川光二郎らの講演を聞く。一方職探しは難航(札幌の新聞はできる気配がなかった)、編集長の沢田が北海道議会議員で小樽日報社長兼釧路新聞(現在の釧路新聞社とは無関係、現在の北海道新聞社)社長である白石義郎に斡旋を依頼し、啄木の才能を買っていた白石の計らいで釧路新聞への就職が決まる。家族を小樽に残して1月19日に釧路に向け出発した。1月21日に到着すると、事実上の編集長(主筆は別にいた)として紙面を任され、筆を振るって読者を増やした。取材のために花柳界に出入りして芸妓の小奴と親交を結び、また初めて習慣的に飲酒をした。 しかし、中央文壇から遠く離れた釧路で記者生活を続けることに焦燥を募らせ、釧路を離れて創作生活に向かうことを決意する。3月20日から病気と称して欠勤し、28日に社長の白石から病気が治らないのかという電報を受けて釧路を去ると決める。4月5日に釧路を後にして海路函館に行き、函館日日新聞に勤めて上京費用を稼ごうと考えていた。再会した宮崎郁雨は啄木からこの考えを聞くと、その創作意欲に報いようと上京資金を用意し、妻子のための家を函館市内に用意した。啄木は4月24日、単身横浜行きの船で旅立ち、約1年間の北海道生活に別れを告げた。
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