公社設立以後
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当初計画では、1970年度から1979年度までの10年間で建設を終えることとされたが、折しもこの時期は高度経済成長のひずみとして水俣病や四日市ぜんそく等の公害問題が顕在化し、自動車交通においても騒音や大気汚染の問題が国民の関心を集める中で、名古屋高速では建設阻止に向けた住民運動が各地域で展開された。さらに1973年(昭和48年)には住民運動が時の市議会を動かして都市高速道路関連予算の執行停止を招いた挙句、直後に実施された名古屋市長選挙では、都市高速建設推進派の現職杉戸清を破って、都市高速建設反対派から推薦された本山政雄が当選した。それまでの市政は自民党主体の保守政治であり、市民の目線よりも経済優先の政治であったことから市民生活を二の次にしたきらいがあった。このため公害等の問題が噴出することになり、本山を当選させた時代背景には、高度経済成長と開発優先の既存政治に嫌気がさした地域住民が市民本位の政治を強く求めたことによった。なお、市民目線の政治(革新政治とも呼ばれた)を求める流れは全国レベルで展開され、太平洋ベルトの主要都市の首長選挙は東京都の美濃部都知事を例として軒並み革新派が当選することになった。 だが、一度スタートを切った都市高速の建設を革新市政が止めることは不可能であった。市長就任後の本山は、建設反対の住民対応と、それに迎合して建設撤回になった場合は議会への説得と同意の必要、そしてこの時点で橋脚の一部が完成していたことから、その取り壊しとそれに要する費用の問題、およびそれまで注ぎ込んだ建設費の市による返済と建設業者への損害賠償など、複雑に絡み合った問題を前にして全く身動きが取れなかった。このため本山は、都市高速建設の方向性は既に決定済であることから、住民の理解と納得を得たうえで建設を推進する旨を表明し、予算凍結解除に向けて市議会の承認を得るべく反対住民の説得のために環境対策や補償を制定し、同年12月末には議会から解除を取りつけることに成功した。ただし、引き続き道路構造等、環境に係わる点については検討を加え、その間は建設を中止する旨を付け加えた。これと前後して本山は建設再開に向けて調査専門委員会に環境対策の検討を依頼、その結果提示された案が全面地下式の採用であり、これであれば、騒音、排気ガス、日照阻害、景観的配慮の全てが解決可能である。しかし、高架式に比べ地下式はコストが3倍かかるとされ、名古屋市の苦しい財政状況下では全区間での採用は叶わず、全体の30パーセントにとどまることになった。それでも地方財政を圧迫することから、2本ある南北路線の内の1本(高速3号)を棚上げすることになった。 こうして不完全ながら住民対応として環境対策のプランを立案して建設は再開と決まったが、この間の長すぎた停滞はオイルショックとも重なって石油価格の上昇を伴い、それは必然的に物価、ひいては建設費の増大となって跳ね返ることになった。なお、時代の経過とともに建設費がいかに上昇したかは次の例で表される。1972年(昭和47年)の大高線建設開始当初は1 km換算の工事費が70億円、それが30年後の2003年(平成15年)には200億円(いずれも高架構造での比較)と約3倍に跳ね上がっている。また、1972年(昭和47年)に比べ、その5年後には2倍の工事費でなければ落札されなくなるなど、1970年代に限って見ても物価は凄まじい勢いで上昇したのであり、後年、市長引退間際の本山が新聞社のインタビューで、自分の判断の遅れによって建設費の増大を招いたことを認め、都市高速は効果を考えて早急に整備すべきであることを述べている。 本山市政における停滞を受けて1985年(昭和60年)に市長に就任したのが西尾武喜であった。立候補以前から都市高速問題が自身の政治活動の最大の懸案事項であることを理解していた西尾は、立候補に先立って支持政党に道路問題で自分を援護してくれるのか確認を取っている。そして都市高速早期整備を公約に掲げる西尾にお墨付きを与えた各政党は、「早期整備」の意味が、建設停滞と公社経営の悪化を召致させかねない半地下、地下構造から再度高架構造への回帰を示唆することを暗黙のうちに了解した。そして就任直後から地域住民による猛烈な建設反対運動を押しのけて高架式に再変更のうえ都心環状線と1号楠線の全線供用に漕ぎ着け、2号東山線の留保区間の解除と高速3号の建設に道筋を与えた。本山市政では遅々として進まなかった建設速度が1980年代後半以降急激に向上したのは、西尾の政治手腕もさることながら、市民の都市高速に対する意識の変化があった。それは本山が初当選した時代と異なり、公害対策よりも経済指向が強くなったことから一部の地域住民を例外とする他は大した反対もなく、各政党間の協調とも相まって事業を推し進めやすいという事情もあった。 総括すれば、名古屋高速の建設の歴史は公害対策と地域住民の説得の歴史でもあり、この廻間で建設が滞ったこともあって当初1979年度までに全線供用とする計画は最終的に2013年(平成25年)11月までずれ込むことになった。そして公団方式ならまだしも、地方自治体と民間資金をメインに構成される公社方式としての建設、運営であることから厳しい地方財政の制約もあって、多額の資金を要する環境対策重視の道路構造は経費節減のために破棄せざるを得ない状況となった。こうして計画は二転三転したことから、さらなる工事の遅延を招いた。そして年毎に物価は上昇を続け、西尾市政で建設速度が向上するも適切な建設のタイミングを完全に逸したことから、結果的に公社は莫大な借金を背負うことになった。ただし、反対住民との対話を通して首都や阪神ではさほど顧みられなかった環境対策は充実することになり、さらに副次的な効果として基幹バスのバスレーン設置および水害対策や一般道路の整備などが実施され、地域住民の利便性に資することになった。
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