五重塔塑像群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 23:24 UTC 版)
国宝。奈良時代(711年)。五重塔の初層内部には多数の塑像が安置され、塑造塔本四面具(そぞうとうほんしめんぐ)として国宝に指定されている。一般拝観者は階段を上って塔の初層に近づくことはできるが、内部に入ることはできず、金網越しに遠くからの拝観となる。「塔本四面具」とは、天平19年(747年)の『資財帳』に見える名称である。『資財帳』には「合塔本肆面具𡓳」〔「𡓳」は土偏に「聶」〕の記載に続けて「一具涅槃像土 一具弥勒仏像土 一具維摩詰像土 一具分舎利仏土」「右和銅四年歳次辛亥寺造者」との注が付されている。土偏に「聶」の漢字は「ショウ」と読み、塑像の意である。「一具涅槃像土」以下は塑像群の表す場面内容を説明しており、これらの塑像群は和銅4年(711年)に完成したものであることがわかる。日本では、古代の塔の初層に塑像群を安置する例は他寺にもあったが、現存するのは法隆寺のものだけである。興福寺五重塔初層には四方四仏の浄土が塑像で表されていたが現存しない。薬師寺の東西両塔の初層には釈迦八相(釈迦の生涯の8つの重要な出来事)が塑像群で表されていたが、現在は一部塑像の断片や心木が残るのみである。 法隆寺五重塔の初層は、須弥壇上に、心柱とその周囲の四天柱を覆い隠すように塑土を盛り上げて壁を築き(これを中国では「塑壁」という)、山岳とその中の岩窟のような形を造っている。これを背景として、東西南北の4面に多数の塑像を配置し、仏教説話の場面を構成している。各面の主題は、北面が釈迦の涅槃の光景、西面が舎利(荼毘に付された釈迦の遺骨)の諸国への分与の光景、南面は弥勒仏の浄土、東面は『維摩経』に説く、維摩居士(維摩詰)と文殊菩薩の問答の場面である。以上の4場面に計90躯以上の塑像があり、後補の像を除いた80点(78躯2基)が国宝に指定されている。80点の内訳は、北面が32躯、西面が29躯と金棺1基、舎利塔1基、東面が16躯。南面はほとんどの像が後補で、弥勒仏像1躯のみが国宝になっている。五重塔の昭和修理時の所見では、創建当初は須弥壇が現状より狭かった。創建後しばらくして(50年以内という)、心柱の根元が腐朽したため修理が行われ、その際に須弥壇を改造して広げたものとみられる。この改造以前には現存する塑像をすべて配置するだけのスペースはなかったとみられ、一部の像は改造時に追加された可能性がある。 4面の塑像群の主題のうち、北・西面は釈迦の入滅と遺骨の分配に関わるものであり、南面は釈迦入滅後56億7千万年後に下生するとされる未来仏の弥勒を表したもので、これら3面の主題は時系列に沿ったものと考えられるが、東面の維摩と文殊の問答だけは異質の主題であり、これら4つの主題がどのような理由で選ばれ、全体として何を意味しているのかは明確でない。東面については、聖徳太子が維摩経義疏を著していることから特にこの主題が選ばれたとの説もある。 北面は中央に横たわる釈迦涅槃像を含め、計34躯の塑像を配置し、うち後補の2躯を除く32躯が国宝である。釈迦涅槃像の像長98.0センチ。その他の像は18.1–58.9センチ。中央手前にいて、釈迦の脈を取るのは医師の耆婆大臣(ぎばだいじん)である。釈迦の背後には菩薩像2体が坐す。その左右には僧形像、俗形像、天部像などが坐し、冷静な表情の者もいるが、大部分の者は釈迦の入滅を悲しんで悲痛な表情を見せ、袖を顔に当てる者、大口を開けて泣き叫ぶ者などもいる。なかでも、最前列の左右に並ぶ7体の羅漢像は両手で胸を叩く、天を仰ぐなど、激しい身振りと表情で悲しみをあらわにしている。これら7体の羅漢像は、誇張された表現が他の像と異質であることから、和銅4年当初の像ではなく、後に追加されたものとする説もある。国宝の32躯の内訳は、釈迦涅槃像1躯、菩薩像2躯、僧形像が最前列の羅漢7躯を含めて11躯、天部像が12躯、俗形男子像が耆婆大臣像を含め2躯、俗形女子像4躯となっている。うち、僧形像2躯、俗形女子像3躯の計5躯は、背景左右の山岳中腹から突き出た岩上に置かれている。天部像12躯のうち、三面六臂の阿修羅像と、獅子冠を被る乾闥婆(けんだつば)像以外は、像名の特定が困難である。12躯の中には、頭部が鳥(あるいは蛇、鼠とも)の形をした異形像3躯が含まれる。阿修羅像は著名な興福寺の同像より古い作例として注目される。 西面は『大般涅槃経』に説く分舎利(釈迦の遺骨の分配)にかかわる場面である。釈迦は入滅後、荼毘に付されたが、その後、諸国の王や部族が釈迦の遺骨(舎利)の分配を主張した。『大般涅槃経』によれば、ドーナという婆羅門の調停により、舎利は8つに分けられ、平等に分配されたという。西面の塑像群は、金棺、舎利塔と29躯の人物像からなり、これらは階段状に4段に配置されている。金棺の高さ25.6センチ、舎利塔の高さ37.3センチ、その他の像は17.1–39.7センチ。上段中央の金棺は蓋に雲文、身に葡萄唐草文を表し、その左右には官人の服装をした人物各1名が坐す。その一段下には八角形の傘蓋を有する舎利塔を置く。これは日本最古の舎利塔の遺品として貴重なものである。その左右には僧形像2躯ずつが坐す。その下の段は左右に俗形の男女像計9躯(官人2、俗形男子2、俗形女子5)を置く。さらに一段下がった最前列は、左右に各7躯、計14躯の小像(僧形1、俗形男子3、俗形女子10)を横一列に並べるが、これらの像はもとからここにあったものではなく、五重塔の各面にあった塑像を寄せ集めたものである。鎌倉時代の『古今目録抄』によれば、西面には他に荼毘の炎が表され、薪を運ぶ人物2人がいると記されているが、今それらの像は失われている。 南面は弥勒仏の倚像(腰かけた形の像)を中心に、左右に菩薩半跏像、その一段下に一対の神王像、最下段には文殊菩薩騎獅像を中心に、狛犬一対、力士像一対、天部像一対を配す。弥勒仏の像高81.0センチ(座高55.4センチ)。弥勒仏以外は後補で、国宝指定対象外である。 東面は、『維摩経』に説く、病身の維摩居士(維摩詰)が見舞いに訪れた文殊菩薩と問答を繰り広げる場面を表したもの。像高は維摩像45.2センチ、文殊像52.4センチ、その他が28.2–45.0センチ。塑像は階段状に3段に配置されている。上段には向かって左に維摩、右に文殊が坐し対面する。維摩と文殊の背後にはそれぞれ1躯の菩薩が随侍する。中段と下段は、中央の通路を挟んで左右に3躯ずつ、計12躯の俗形の男女(女子10、男子2)が坐す。このほか、左右の山岳から発する雲の上にいくつかの像がある。向かって左方の雲上には散華する菩薩像、右方の雲上には香飯を運ぶ菩薩像、左方と右方のそれぞれに牀座(しょうざ、腰掛)を運ぶ獅子像が表されているが、これらはいずれも『維摩経』中のエピソードを視覚化したものである。 塑像の制作方法はおおむね次のとおりである。ヒノキ製の底板の上に心木を立て、これに縄を巻いて芯にする。指などの細い部分には銅線などを芯にする。これに荒土、中塗土、仕上土の順で粘土を塗り重ねて仕上げる。塑像群のうち、東面の文殊菩薩像などには中国の唐様式の影響がうかがわれる。俗形の女子像のなかには唐時代の俑(墓に副葬した人物像)に似たものがあり、唐代美術の影響が強く感じられる。また、仏教美術史家の宮治昭によれば、北面に涅槃浄土、南面に弥勒仏を配する構成は、シルクロードのキジル石窟との共通性が指摘されている。
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