中世、ルネサンス期、ブルボン王朝期
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「ルーヴル美術館」の記事における「中世、ルネサンス期、ブルボン王朝期」の解説
現在ルーヴル美術館として使用されているルーヴル宮殿は、12世紀にカペー朝第7代のフランス王フィリップ2世(在位1180年 - 1223年)が要塞として建設したルーヴル城をもととしており、当時の建物の面影が現在も地下室に残っている。ただし、ルーヴル城が、すでに存在していた別の建造物を増改築した要塞だったのか、一から建てられた要塞だったのかどうかは伝わっていない。セーヌ川の中洲であるシテ島は、中世においてもパリの中心地であった。都市の防衛という面で、街の中心を流れるセーヌ川自体が防御の弱点となっていたため、防衛要塞たるルーヴル城が建設された。円筒形で、径約15メートルのドンジョン(主塔、天守)の周囲に方形の城壁(約78×72メートル)を巡らした要塞は、20年余の歳月を要して完成した。この城壁は、現代のルーヴルのシュリー翼の位置にあたり、シュリー翼の中庭(クール・カレ)の南西側4分の1の面積に相当する。当時のルーヴルは宮殿ではなくまさに要塞であり、建物の役割は大部分が牢獄や人質の監禁場所にあてられていた。パリ市の防衛のために建造されたルーヴル城であったが、この城が英国など外国からの攻撃にさらされることは結局なかった。当時のルーヴルの遺構は、のちのナポレオン3世の時代、1866年にも発掘調査が行われているが、本格的・学術的な発掘調査が行われたのは1984年から1986年のことである。また、1991年に発掘された城壁の一部は、地下のショッピングセンターの大ホールで一般に公開されている。 「ルーヴル (louvre)」 の語源については複数の説がある。12世紀後半のパリで最大の建築物だったことから「偉大な」を意味するフランス語「L'Œuvre」からという説、森の中に建てられたことから「オーク」を意味するフランス語「rouvre」からという説、『ラルース百科事典』の「狼狩り」と関係するラテン語「lupus」が変化した、ビザンチン帝国で使われていたラテン語「lupara」から派生したという説などがある。また、7世紀フランスのモーの女子大修道院長聖ファーレは「パリ地方にルーヴラ (Luvra) と呼ばれる邸宅がある」という記録を修道院に残しているが、この記述の「パリ」はおそらく現在のパリとは違う地域を指していると考えられる。 ルーヴル宮殿は中世時代を通じて何度も改築されている。14世紀にはフランス王シャルル5世(在位1364年 - 1380年)が、レーモン・デュ・タンブルに命じてルーヴル城を改修し、「要塞」のイメージが強かったルーヴルを、規模は従来のままで、華やかな「城館(シャトー)」へと造り替えた。1546年にはフランソワ1世が、ルネサンス様式の壮麗な建物への改築を決定した。このフランソワ1世が収集した美術品、たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』などが、ルーヴル美術コレクションの中核となっていった。フランソワ1世は、1528年にルーヴル城のドンジョン(主塔)を取り壊した。1546年には建築家ピエール・レスコに命じて、旧城を取り壊し新たな宮殿を建築する工事を開始したが、その翌年フランソワ1世が死去したため、ルーヴル城の改築は息子のアンリ2世(在位1547年 - 1559年)に引き継がれた。アンリ2世の死後、その妃カトリーヌ・ド・メディシスが、ルーヴルの西約500メートルのところに新たな宮殿の建築を始めさせた。かつて瓦(テュイル)製造工房があったことからテュイルリー宮殿と呼ばれるこの宮殿は、フィリベール・ドロルムの設計で、1563年から建築が開始され、完成には約1世紀を要した。 ヴァロア王朝の終焉後、ブルボン王朝の初代の王であるアンリ4世(在位1589年 - 1610年)は、旧ルーヴル城の部分を4倍の面積に広げ(現代のシュリー翼に相当)、セーヌ河に沿ってルーヴルと西のテュイルリー宮殿を直接結ぶ、長大な回廊(現在の「大展示室 (Grande Galerie)」)を建設させた。グランド・ギャルリの建設やクール・カレ(方形中庭)の拡張を含む「グラン・デッサン(大計画)」はアンリ4世の時代に開始されたが、造営は次のルイ13世(在位1610年 - 1643年)の時代にも引き継がれた。太陽王ルイ14世(在位1643年 - 1715年)もさらなる拡張計画を進め、1657年からは建築家ルイ・ル・ヴォーが中心となって、クール・カレ(方形中庭)の拡張、ならびにルーヴル宮殿とテュイルリー宮殿を結ぶ建物の工事が進められた。しかしながら、1682年にルイ14世が自身の宮殿に、それまでの歴代フランス王が宮廷としていたルーヴル宮殿から、ヴェルサイユ宮殿へと宮廷を移すことを決めた。宮廷の移動にともなうヴェルサイユ宮殿の改築工事は遅れがちではあったが、遷宮は予定どおりに行われ、王族が不在となったルーヴル宮殿は、芸術家たちの住居兼アトリエとして提供されることとなった。 1747年に出版された美術評論家ラ・フォン・ド・サン=ティエンヌの著作がきっかけで、18世紀半ばに王室美術コレクションを公開展示するギャラリーを設置しようという気運が高まった。1750年10月14日にルイ15世がギャラリーの設置を承認し、リュクサンブール宮殿に「王室絵画ギャラリー (Galerie royale de peinture)」を設け、王室コレクションが所蔵する96点の絵画作品を展示することを許可した。ギャラリーの開館には、ル・ノルマン・ド・トゥルヌエム (en:Charles François Paul Le Normant de Tournehem) と、マリニー侯爵アベル=フランソワが立会っている。「王の絵画 (Tableaux du Roy)」は、毎週水曜日と土曜日に一般公開された。公開された王室絵画コレクションには、ルネサンス期のイタリア人画家アンドレア・デル・サルトの『慈愛』をはじめ、ルネサンス期イタリア人画家ラファエロ、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、バロック期オランダ人画家レンブラント、ヴァン・ダイク、バロック期フランス人画家プッサンらの絵画作品が含まれていた。1778年にルイ16世がリュクサンブール宮殿をプロヴァンス伯爵ルイに与えたため、この絵画ギャラリーは1780年に閉館された。しかしながら、ルイ16世のもとでリュクサンブール宮殿に代わる王立美術館の設置は国の政策となっていった。そして、王室建造物長官で王立絵画彫刻アカデミーにも関わっていたダンジヴィレ伯シャルル・クロード (en:Charles-Claude Flahaut de la Billaderie, comte d'Angiviller) が美術コレクションを拡張し、1776年にルーヴル宮殿を「巨大なギャラリー (Grande Galerie)」として、美術館へと転用する案を提出した。ルーヴル宮殿を美術館へと転用するというこの提案には多くの賛同者が現れたが王室からの許可は下りず、本格的にルーヴル宮殿が美術館として使用されるようになったのはフランス革命以降のことだった。
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