中世、ルネサンス期、ブルボン王朝期とは? わかりやすく解説

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中世、ルネサンス期、ブルボン王朝期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 04:14 UTC 版)

ルーヴル美術館」の記事における「中世、ルネサンス期、ブルボン王朝期」の解説

現在ルーヴル美術館として使用されているルーヴル宮殿は、12世紀カペー朝第7代フランス王フィリップ2世在位1180年 - 1223年)が要塞として建設したルーヴル城をもととしており、当時建物面影が現在も地下室残っている。ただし、ルーヴル城が、すでに存在していた別の建造物増改築した要塞だったのか、一から建てられ要塞だったのかどうか伝わっていない。セーヌ川中洲であるシテ島は、中世においてもパリ中心地であった都市防衛という面で、街の中心流れセーヌ川自体防御弱点となっていたため、防衛要塞たるルーヴル城が建設された。円筒形で、径約15メートルドンジョン主塔天守)の周囲方形城壁(約78×72メートル)を巡らした要塞は、20年余の歳月要して完成した。この城壁は、現代ルーヴルシュリー翼の位置にあたりシュリー翼の中庭(クール・カレ)の南西側4分の1面積相当する当時ルーヴル宮殿ではなくまさに要塞であり、建物役割大部分牢獄人質監禁場所にあてられていた。パリ市防衛のために建造されルーヴルであったが、この城が英国など外国からの攻撃さらされることは結局なかった。当時ルーヴル遺構は、のちのナポレオン3世時代1866年にも発掘調査が行われているが、本格的学術的な発掘調査が行われたのは1984年から1986年のことである。また、1991年発掘され城壁一部は、地下ショッピングセンターの大ホール一般に公開されている。 「ルーヴル (louvre)」 の語源について複数の説がある。12世紀後半パリ最大建築物だったことから「偉大な」を意味するフランス語「L'Œuvre」からという説、中に建てられたことから「オーク」を意味するフランス語「rouvre」からという説、『ラルース百科事典』の「狩り」と関係するラテン語lupus」が変化したビザンチン帝国使われていたラテン語lupara」から派生したという説などがある。また、7世紀フランスモー女子大修道院長聖ファーレは「パリ地方にルーヴラ (Luvra) と呼ばれる邸宅がある」という記録修道院残しているが、この記述の「パリ」はおそらく現在のパリとは違う地域指していると考えられるルーヴル宮殿中世時代通じて何度も改築されている。14世紀にはフランス王シャルル5世在位1364年 - 1380年)が、レーモン・デュ・タンブルに命じてルーヴル城を改修し、「要塞」のイメージ強かったルーヴルを、規模従来のままで、華やかな城館シャトー)」へと造り替えた1546年にはフランソワ1世が、ルネサンス様式壮麗な建物への改築決定した。このフランソワ1世収集した美術品、たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』などが、ルーヴル美術コレクション中核となっていった。フランソワ1世は、1528年ルーヴル城のドンジョン主塔)を取り壊した1546年には建築家ピエール・レスコ命じて、旧城を取り壊し新たな宮殿建築する工事開始したが、その翌年フランソワ1世死去したため、ルーヴル城の改築息子アンリ2世在位1547年 - 1559年)に引き継がれた。アンリ2世死後、その妃カトリーヌ・ド・メディシスが、ルーヴルの西約500メートルところに新たな宮殿建築始めさせた。かつて瓦(テュイル)製造工房があったことからテュイルリー宮殿呼ばれるこの宮殿は、フィリベール・ドロルムの設計で、1563年から建築開始され完成には約1世紀要したヴァロア王朝の終焉後、ブルボン王朝初代の王であるアンリ4世在位1589年 - 1610年)は、旧ルーヴル城の部分を4倍の面積広げ現代シュリー翼に相当)、セーヌ河に沿ってルーヴルと西のテュイルリー宮殿直接結ぶ、長大回廊現在の「大展示室 (Grande Galerie)」)を建設させた。グランド・ギャルリの建設やクール・カレ(方形中庭)の拡張を含む「グラン・デッサン(大計画)」はアンリ4世時代開始されたが、造営次のルイ13世在位1610年 - 1643年)の時代にも引き継がれた。太陽王ルイ14世在位1643年 - 1715年)もさらなる拡張計画進め1657年からは建築家ルイ・ル・ヴォー中心となって、クール・カレ(方形中庭)の拡張ならびにルーヴル宮殿テュイルリー宮殿を結ぶ建物工事進められた。しかしながら1682年ルイ14世自身宮殿に、それまで歴代フランス王宮廷としていたルーヴル宮殿から、ヴェルサイユ宮殿へと宮廷を移すことを決めた宮廷移動にともなうヴェルサイユ宮殿改築工事は遅れがちではあったが、遷宮予定どおり行われ王族不在となったルーヴル宮殿は、芸術家たちの住居アトリエとして提供されることとなった1747年出版され美術評論家ラ・フォン・ド・サン=ティエンヌの著作きっかけで、18世紀半ば王室美術コレクション公開展示するギャラリー設置しようという気運高まった1750年10月14日ルイ15世ギャラリー設置承認しリュクサンブール宮殿に「王室絵画ギャラリー (Galerie royale de peinture)」を設け王室コレクション所蔵する96点の絵画作品展示することを許可したギャラリー開館には、ル・ノルマン・ド・トゥルヌエム (en:Charles François Paul Le Normant de Tournehem) と、マリニー侯爵アベルフランソワ立会っている。「王の絵画 (Tableaux du Roy)」は、毎週水曜日土曜日一般公開された。公開され王室絵画コレクションには、ルネサンス期イタリア人画家アンドレア・デル・サルトの『慈愛』をはじめ、ルネサンス期イタリア人画家ラファエロティツィアーノヴェロネーゼバロック期オランダ人画家レンブラントヴァン・ダイクバロック期フランス人画家プッサンらの絵画作品含まれていた。1778年ルイ16世リュクサンブール宮殿プロヴァンス伯爵ルイ与えたため、この絵画ギャラリー1780年閉館された。しかしながらルイ16世のもとでリュクサンブール宮殿代わる王立美術館設置は国の政策となっていった。そして、王室建造物長官王立絵画彫刻アカデミーにも関わっていたダンジヴィレ伯シャルル・クロード (en:Charles-Claude Flahaut de la Billaderie, comte d'Angiviller) が美術コレクション拡張し1776年ルーヴル宮殿を「巨大なギャラリー (Grande Galerie)」として、美術館へと転用する案を提出したルーヴル宮殿美術館へと転用するというこの提案には多く賛同者現れたが王室からの許可下りず、本格的にルーヴル宮殿美術館として使用されるようになったのはフランス革命以降のことだった。

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