不審な事例
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「ジョン・ボドキン・アダムズ」の記事における「不審な事例」の解説
捜査中にハンナによって集められた証言から証拠のいくつかを引用する価値があるが、しかしこれらは決して法廷で空気にあてられなかった。全体的に考えれば、これらは、或るひとつの手口(a certain modus operandi)を示唆している: 1939年8月 - アダムズは、アグネス・パイク(Agnes Pike)を治療中であった。しかしながら、彼女の事務弁護士らは、彼が彼女にあたえていた催眠薬の量を心配し、そしてべつの医師ドクター・マシュー(Dr Mathew)に治療を引き継ぐようにもとめた。ドクター・マシューは、アダムズのいるところで、彼女を診察したが、しかし病気の存在を見つけることができなかった。患者は、「薬物の影響を強くうけて」("deeply under the influence of drugs")、話の筋がとおらず、そして自分の年齢を200歳と言った。のちに、診察中にアダムズは不意に進み出て、そしてパイクにモルヒネを注射した。なぜこうしたのか訊ねられてアダムズは応えた「彼女が暴力をふるうかもしれないから」("because she might be violent")。ドクター・マシューは、アダムズが、すべての親戚に面会を禁じていたことにきづいた。ドクター・マシューは、アダムズの医薬治療をとりやめ、そして8週間の彼の治療ののちパイクは自分で買い物をし、そしてじゅうぶんな能力を回復した。 1946年12月24日 – エミリー・ルイズ・モーティマー(Emily Louise Mortimer)が75歳で死亡した。のちになってアダムズは、彼女の室からブランデーのボトルと置き時計をとった。彼は警察に、置き時計は自分によって貸与されていたことと「ナーシング・ホームに火酒を残しておくことは正しく」('right to leave spirits in a nursing home')ないことを主張した。アダムズは、モーティマーの遺言書から残余部分を受け取り、そして1957年までに彼が相続した分け前から配当金の1950ポンドをうけた。 1950年2月23日 – エーミー・ウェア(Amy Ware)が76歳で死亡した。アダムズは、彼女の死亡のまえに親戚に会うのを禁じていた。彼女は、自分の全財産8,993ポンドのうち1000ポンドをアダムズに遺し、しかしアダムズは、火葬用紙で自分は遺言書の受取人ではないと述べた。彼はうったえられ、そしてこれのために1957年に有罪判決を言い渡された。 1950年12月28日 – アナベル・キルガー(Annabelle Kilgour)が89歳で死亡した。彼女は、発作をおこした7月から、アダムズによって診察されていた。アダムズが彼女に鎮静剤をあたえはじめた直後に、彼女は12月23日に昏睡状態におちいった。のちにかかわった看護師は警察に、自分は、「アダムズはあやまった注射をしたかまたは集中した型であることを確信している」('quite certain Adams either gave the wrong injection or of far too concentrated a type")と語った。キルガーは、アダムズに200ポンドと置き時計を遺した。 1952年1月3日 – アダムズはフェノバルビトン錠剤を5000錠、購入した。4年後に家宅捜索がされたときまでに、なにも残っていなかった。 1952年5月11日 - ジュリア・ブラッドナム(Julia Bradnum)が85歳で死亡した。前年、アダムズは彼女に、遺言書は有効であるかどうかをたずね、そしてそれを点検するために銀行に同行しようと申し出た。それを調べるや、彼は、彼女が受取人らに「住所」("addresses")をあたえていないことと、それが書き直さなければならないことを指摘した。彼女は、養女に家を遺したかったが、しかしアダムズは、家を売ってから誰であれ彼女があたえたい人に金銭をあたえることがいちばんよいのではないかと提案した。これを彼女はおこなった。アダムズは結局661ポンドをうけとった。アダムズは、この患者を診察しているあいだ、彼女の手をにぎり、そして片膝をついて彼女に雑談しているのがしばしば見られた。ブラッドナムは、死亡する前日に、家事をして、そして散歩をしていた。翌朝、彼女は目ざめたとき気分がすぐれなかった。アダムズが呼ばれ、そして彼女をみた。彼は彼女に注射をして、「3分もすれば終わるでしょう」("It will be over in three minutes")とのべた。そのとおりであった。アダムズはそれから確認し、「彼女が死んだのではないかと思う」("I'm afraid she's gone")そして室を去った。 ブラッドナムは1956年12月21日に発掘された。アダムズは、ブラッドナムは脳出血のために死亡したと死亡証明書で述べた。フランシス・キャンプスは、彼女の脳をしらべ、そしてこの可能性を排除した。遺体の残りは、死亡の真因を演繹するべき状態ではなかった。遺言執行者アダムズがブラッドナムの棺の上に、彼女が1952年5月27日に死亡したことを述べるプレートを置いていたことが注意された。これは、彼女の遺体が埋葬された日付であった。 1952年12月22日 - ジュリア・トマス 72歳は、12月上旬にネコが死んだのちアダムズ(彼を彼女は「ボバムズ」("Bobbums")と呼んだ)から鬱病の治療をうけつつあった。19日に、アダムズは鎮静剤をあたえたので、彼女は「朝は気分がよくなった」("better for it in the morning")ものであったことになる。翌日、彼女はさらに錠剤をあたえられたのち昏睡状態におちいった。21日に、彼は、トマスの調理人に語った:「ミセス・トマスはわたしにタイプライターをあたえる約束をしてくれましたから、いまもってゆきます」("Mrs. Thomas has promised me her typewriter, I'll take it now")彼女は翌朝午前3時に死亡した。 1953年1月15日 – ヒルダ・ニール・ミラー(Hilda Neil Miller) 86歳 が、その姉妹と住んでいたゲスト・ハウスで死亡した。彼女らはそれ以前、幾ヶ月も郵便を受けとらなかったし、親戚らから切り離されていた。ヒルダの長期の友人ドリー・ウォリス(Dolly Wallis)がアダムズに彼女の健康状態についてたずねたとき、彼は彼女が「理解できない」("did not understand")医学用語で彼女に答えた。ヒルダを訪問ちゅう、アダムズが室内の品物をポケットにいれるのを看護師フィリス・オーエン(Phyllis Owen)に見られていた。アダムズは自らヒルダの葬儀と埋葬の手配をおこなった。 1954年2月22日 – クララ・ニール・ミラー(Clara Neil Miller)が87歳で死亡した。アダムズは彼女をみるとき、しばしばドアに錠をかけた - 一回は20分間まで。ドリー・ウォリスがこのことについてたずねたとき、クララは、彼は彼女の「個人的なことがら」("personal matters")で助けていたと言った:ブローチをピンでとめ、服をととのえる。彼のふとった両手は、彼女にとって「気持ちがよい」("comforting")ものであった。彼女もまた、薬物の影響を受けているようにみえた。多くの年々のうち最も寒かった年、その2月の前半、アダムズは40分間、彼女の室に彼女とともにこしかけていた。看護師が気づかれぬまま中にはいると、クララの「ベッド・クローズはすべてはがされ...そしてベッドの足に近い端のてすりの上方に、彼女の胸にはナイト・ガウンがかけられ室の窓は上も下も開いていて」("bed clothes all off... and over the foot rail of the bed, her night gown up around her chest and the window in the room open top and bottom")、アダムズは彼女に聖書を読んでやっていた。このことに関してのちにハナムに直面したとき、アダムズは「そのことをあなたに語った人物は、なぜわたしがそれをしたか知らないのです」("The person who told you that doesn't know why I did it")。 クララはアダムズに1,275ポンドを遺し、そして彼は彼女の死ののち、さらに彼女の財産に700ポンドを請求した。彼がただひとりの遺言執行者であった。彼女の葬儀は、アダムズによって手はずされ、そして彼とゲスト・ハウスの所有者アニー・シャープのみが出席した。彼女は、クララの遺言書において200ポンドをうけとった。アダムズは、式ののち教会区牧師に1ギニーのチップをあたえた。クララは、1956年12月21日に警察捜査ちゅうに掘り出された遺体2柱のうちの1柱であった。フランシス・キャンプスは、彼女は - アダムズが死亡証明書で言った心臓の問題ではなく - 高濃度の薬物によるかもしれない、気管支肺炎にかかっていたと断定した。処方の記録によれば、アダムズは気管支肺炎を治療するものはなにも処方していなかった。 1955年5月30日 – エーミー・ウェア(上述)の義理の兄弟ジェームズ・ダウンズ(James Downs)が、88歳で死亡した。彼は、4ヶ月前に片方のくるぶしを骨折してナーシング・ホーム(nursing home)にはいっていた。アダムズは、モルヒネをふくむ鎮静剤で治療していて、そのために彼は忘れっぽくなった。4月7日にアダムズは、彼の看護師シスター・ミラー(Sister Miller)に、彼をいっそう精神を機敏にする錠剤をあたえた。2時間後、彼のために遺言書を訂正する事務弁護士が到着した。アダムズは、事務弁護士に、自分は1000ポンドを相続する受遺者になる予定であるとかたった。事務弁護士は遺言書を訂正し、そして2時間後、別の医師ドクター・バークワース(Dr Barkworth)とともにもどってきて、バークワースは、患者は精神が機敏になると断言した。ドクター・バークワースは、その時間に3ギニーを支払われた。看護師ミラーはのちに警察に、自分は、その4月のより早い時期にアダムズが「もうろくした」("senile")ダウンズに語るのを聞いたと語った。「いいかいねえジミー、あなたはわたしにくれると約束したね... あなたがわたしの面倒を見てくれるだろうし、そしてあなたは遺言書に私の名前をいれさえしてくれないのはわたしはわかっているよ」("Now look Jimmy, you promised me... you would look after me and I see you haven't even mentioned me in your will.")「わたしはあなたにけっして報酬は請求しなかった」("I have never charged you a fee")。ダウンズは、36時間の昏睡ののち死亡したが、これはアダムズの最後の訪問の12時間後のことであった。アダムズは、サービスについて彼の財産に216ポンドを請求し、そして彼が「故人の死亡にたいして金銭的な関心はない」("no pecuniary interest in the death of the deceased")ことをのべるダウンズの火葬用紙に署名した。 1956年3月14日 – アルフレッド・ジョン・ハレット(Alfred John Hullett)が71歳で死亡した。彼は、ガートルード・ハレットの夫であった。彼の死亡の直後に、アダムズは、5グレーンのモルヒネをふくむミスタ・ハレットの名前で皮下注射用のモルヒネ溶液を入手するために薬剤師のもとに行き、そして処方は実際の日付よりもまえの日付をつけさせた。警察は、これはアダムズが私的な供給品から彼にあたえたモルヒネを覆い隠すためであると推定した。ミスタ・ハレットは、遺言書でアダムズに500ポンドを遺した。 1956年11月15日 – ニール・ミラーが死亡したゲスト・ハウスの所有者アニー・シャープ(Annie Sharpe) - したがって主要な証人 - が、「腹膜腔の癌腫症」("carcinomatosis of the peritoneal cavity")で死亡し、一方でハナムとヒーウェットは、ロンドンで公訴局長官と会っていた。アダムズは、5日前に癌と診断し、そしてシャープにhyperduricなモルヒネと36錠のペチジンを処方していた。警察はたいへん失望した:彼らには彼女にインタヴューする機会が2回あって、そしてハナムとヒーウェットは、彼女が「口を割」("crack")るところであると感じていた。彼女はいそいで火葬され、彼女の死亡の捜査をさまたげた。 ハナムはまた、アダムズの家のスタッフのうち4人がアダムズによってモルヒネ、ヘロインまたはペチジンのいずれかを処方されていたことを見いだした。アダムズはこれらを国民保険制度で入手し、それでハナムに、彼はかれらの名前を使用しそして薬物を自分の供給品に保管しておく - 詐欺行為 - と断定する気にさせた。
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