ロンドンオリンピックまで
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その後よりレベルの高い試合で実戦感覚を養うことを目的として、2009年4月で早稲田大学卓球部での活動を休止し、海外で行われるITTFプロツアーを中心に出場。日本国内ではサンリツ(物流会社)の卓球部の一員として日本リーグに参戦することになった。そして、海外ツアーや中国のスーパーリーグ参戦を優先するため、および早稲田大学の単位の取得が困難になったために、2010年3月で早稲田大学を退学し、卓球に専念して2012年のロンドン五輪に臨む意向であることが関係者から明らかになった。2008年1月全日本卓球選手権で敗れた後、大学の授業にあまり出席できないこと、また2008年が五輪イヤーでもあることから関係者が福原の休学ないし中退を示唆していた(彼女は入学後も練習を早稲田大学では行わず青森や秋田で練習を続けた。また五輪出場権獲得のために世界ランク高位を維持するため、海外の卓球ツアーに多く出場したため欠席も多かった)。 2011年5月、ロッテルダム世界選手権混合ダブルスにおいて岸川聖也とペアを組み、この種目では日本選手34年ぶりの銅メダルを獲得。大会終了後の5月16日付世界ランキングで日本人2番目の9位となり、ロンドンオリンピックシングルス出場権を獲得。2011年11月27日にはロンドン五輪と同会場で行われたテスト大会のプロツアー・グランドファイナルで石川佳純と女子ダブルスに出場して準優勝を収め、主戦場としてきたシングルス以外に活路を見出していた。そして2012年1月21日、東京体育館で開催された全日本選手権において、決勝戦で石川佳純を4-1で下し、13回目の挑戦にして念願の選手権を獲得している。 2012年は3月に開催された第51回世界卓球選手権団体戦( ドイツ・ドルトムント)に石川佳純、平野早矢香、藤井寛子、石垣優香と共に日本代表として出場するも、準々決勝で大韓民国代表にフルセット(2-3)の末に敗れてメダルを逸してしまった。 7月に開催されたロンドンオリンピック卓球競技では、女子シングルス戦では第5シードとして3回戦から登場し、アンナ・チホミロワ(ロシア)を4-0と退け、4回戦ではジエ・リー(オランダ)に対し、ゲームカウント1-3と追い詰められたが、そこから3ゲームを連取して4-3でオリンピックでは自身初の準々決勝進出を達成。準々決勝では世界ランク1位の丁寧と対戦して、第1ゲームでは先にゲームポイントを迎えたが、これを取れず、結局0-4で敗れた。団体戦には平野早矢香、石川佳純と共に出場。1回戦アメリカ、準々決勝ドイツを破った後の準決勝シンガポール戦では第1戦目でシングルス銅メダリストの馮天薇を3-1で破った。続く2戦目の石川のシングルス、3戦目の石川・平野ペアのダブルスも日本が勝ち、日本勢オリンピック史上初の決勝進出を果たす。決勝戦で中国に0-3で敗れ2位となったが、日本卓球史上初となる銀メダルを獲得した。
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ロンドンオリンピックまで
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「中村美里」の記事における「ロンドンオリンピックまで」の解説
2008年10月5日、世界団体選手権(東京)に代表として出場。決勝戦にのみ登場し、開始わずか16秒、フランスのマリーヌ・リシャールに小内刈で余裕の一本勝ち。日本の優勝に貢献した。 北京オリンピック後、初の個人戦となる講道館杯では順調に勝ち上がり、決勝でロンドンオリンピック代表争いのライバルと目される西田と公式戦初対決。中村は強化を続けている組み手争いで西田にチャンスを与えず、指導2で優勢勝ち。この大会連覇を飾った。 そして、同じく中村対西田の対決となった12月の嘉納杯決勝。中村は組み手争いでは優位に立ったが積極的に技が出せずGSの末、旗判定で西田に屈した。これで北京以降、ライバル対決は1勝1敗となった。
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ロンドンオリンピックまで
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遼寧省鞍山市出身。2004年に早くもアジアジュニア選手権で優勝。さらに同年、神戸市で行われた世界ジュニア選手権男子シングルスで優勝し、早くも注目を集めるようになる。2005年以降はシニアの大会にも出場。2006年には世界選手権ブレーメン大会のメンバーに選ばれた。初出場ながら、王励勤、馬琳、王皓、陳キとともに団体で優勝を果たした。 2009年の世界選手権横浜大会男子シングルスでは、準決勝で王皓に1-4で敗れ、続くダブルスも許昕とのペアで決勝まで進んだものの、陳キ・王皓ペアに1-4で敗れ、個人戦初優勝には至らなかった。しかし、同年11月からラクナウで開催されたアジア選手権では、男子シングルス・男子ダブルス(許昕ペア)・混合ダブルス(李暁霞ペア)・男子団体の4種目全てを制覇した。 2010年のアジア競技大会男子シングルスで優勝。また、同年4月には初めてITTF世界ランキング1位となった。 2011年、許昕とのペアで挑んだ世界選手権ロッテルダム大会では、男子ダブルスで初優勝を果たした。 ロンドンオリンピックのシングルスへは、出場枠が各国3人から2人に減らされたこともあり出場権を獲得できなかったものの、張継科・王皓とともに男子団体での金メダルの獲得に貢献した。
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ロンドンオリンピック(1908年)まで
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「ドランド・ピエトリ」の記事における「ロンドンオリンピック(1908年)まで」の解説
ピエトリは、イタリアのエミリア=ロマーニャ州出身で、若い頃は菓子屋の店員として働いていた。1904年に当時イタリアでもっとも有名なランナーであったペリクーレ・パグリアーニがピエトリの地元のレースに参加したときに、ピエトリはそのイベントに魅せられて参加し、パグリアーニよりも先着した。数日後、ピエトリは長距離界にデビューし、ボローニャで行われた3000mで2位に入る活躍をしている。 翌年、パリで行われた30kmレースで勝利し、初めて国際的な成功を収めた。さらに、1906年4月には1906年のアテネオリンピック(非公式大会)の選考レースである大会にも勝利する。しかし、アテネオリンピック本番では途中までトップを走っていたにもかかわらず、腹の調子が悪くなりリタイアしてしまった。この時の勝者はウィリアム・シェリング(カナダ)であった。 1907年にはイタリア選手権に勝利する。彼は、5000mからマラソンまで、押しも押されもせぬイタリアのトップランナーと認められた。
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ロンドンオリンピック(2012年)まで
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「室伏広治」の記事における「ロンドンオリンピック(2012年)まで」の解説
2009年は第93回日本選手権にのみ出場、73m26で15連覇を達成。同年からアリゾナ州「Athletes' Performance」社に所属しているフィジカルトレーナーの咲花正弥、理学療法士のロバート・オオハシ、テクニカルコーチのトーレ・グスタフソン、中京大学スポーツ科学部教授の清水卓也と“チーム・コウジ”を結成。 2010年の第94回日本選手権では77m35で16連覇を達成、IAAFワールドチャレンジミーティングスでは8月29日のリエティ大会で世界ランキング1位となる80m99、9月1日のザグレブ大会で79m91を投げて優勝し、IAAFハンマースローチャレンジの初代年間チャンピオンとなった。 2011年5月8日のセイコーゴールデングランプリ川崎では78m10で2位になり、世界選手権標準記録Aを突破。6月11日の第95回日本選手権では77m01で17連覇を達成。8月29日の世界陸上大邱大会では3投目と5投目に81m24を投げて優勝、世界選手権で初の金メダルを獲得。日本人選手で初となる五輪・世界選手権二冠覇者になるとともに、世界選手権における男子最年長優勝者(36歳と325日)となった。 2012年6月8日の第96回日本選手権では72m85で18連覇を達成。8月5日のロンドンオリンピックでは78m71で3位になり、銅メダルを獲得。 2011年と2012年の日本陸上連盟の年間表彰式「アスレティック・アワード」において、アスリート・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手)に選出されている。
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