マドリード条約
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「第三次イタリア戦争」の記事における「マドリード条約」の解説
パヴィアの敗戦の後、フランス王、ひいてはフランスの運命は、熾烈な外交駆け引きで争われた。カール5世は戦争の支出を払えず、資金捻出のためにイザベラ・フォン・ポルトゥガルと結婚した。これによりヘンリー8世と約束したテューダー家との婚約は破棄されたが、ポルトガル王女を選んだのは持参金の金額が上だったためだった。ブルボン公はヘンリー8世とフランス分割の陰謀を練り、同時にペスカーラにナポリを侵攻してイタリア王に即位するようそそのかした。 フランスでは摂政のルイーズ・ド・サヴォワが兵士と資金を集め、イングランド軍のアルトワを未然に防げた。またはじめてフランスの使節団をオスマン帝国に送り、スレイマン1世に助けを求めようとしたが、使節団はボスニアで行方不明になった。12月に再びジャン・フランジパーニ(英語版)などを含む使節団を送った。今度は無事オスマン帝国の首都コンスタンティノープルに着き、秘密の親書を送付した。親書にはフランソワ1世の救出とハプスブルク家の攻撃などの要請が盛り込まれていた。フランジパーニはスレイマン1世の返信を持って1526年2月6日に帰国、フランス・オスマン同盟(英語版)の第一歩となった。スレイマンはその後、カールに最後通牒を送り、フランソワ1世の即時解放と神聖ローマ帝国からの年貢を要求した。それが断られると、オスマン帝国は1526年夏にハンガリーに侵攻、ウィーンへと進軍した。 フランソワはカールと直談判すれば解放されるとの確信を持って、ペスカーラとラノワにナポリのヌオヴォ城(英語版)ではなくスペインで幽閉されることを求めた。ブルボン公の陰謀が気がかりだった二人は同意して、6月12日にフランソワをバルセロナへ護送した。 フランソワははじめバレンシアの近くのベニサノ(英語版)で囚われていたが、イタリアの反乱を危惧するモンモランシーとラノワの強い要請に推されたカールはフランソワをマドリードに移動させた。しかし、カールはフランソワが条約を受諾するまで面会しない、と強い拒否を示した。 一方、フランソワ1世と同じくパヴィアの戦いで捕虜となりマドリードで囚われていたナバラ王エンリケ2世は脱出した。彼は帰国したがスペインのナバラ侵攻が続き、カールがバス=ナヴァールの南端を占領した。 カールはフランソワ1世に対し、ロンバルディアだけでなくブルゴーニュとプロヴァンスの割譲も求めたが、フランソワは「フランスの法律では、フランス王冠領を高等法院の許可なく放棄することは許されない」と強弁し、また高等法院は許可を下さないだろうと予想した。 9月、フランソワは重病になった。彼の姉はマルグリット・ド・ナヴァルは看病のためパリからスペインまで急行した。フランソワ1世を診察した帝国の医者たちは皇帝に受け入れられなかった悲しみから病気になったとし、カール5世にお見舞いするよう求めた。帝国宰相のメルクリーノ・ガッティナーラ(英語版)は「死の床でようやく面会に行くことは同情ではなく現金な行いであり、皇帝がすべき行動ではない」と猛反対したが皇帝はお見舞いに同意し、フランソワの容態もその後快方へ向かった。しかし、脱走には失敗し、マルグリットが強制送還される結果となった。 1526年のはじめ、カールはヴェネツィアと教皇からフランチェスコ2世・スフォルツァ(英語版)をミラノ公位に復帰させるよう強く求められ、次の戦争が始まる前にフランスと和平する必要が出てきた。一方のフランソワはブルゴーニュを維持を堅持しようとしたが失敗したため、自らが解放されるために徐々にブルゴーニュの放棄も視野に入れるようになった。1526年1月14日、カールとフランソワはマドリード条約に署名し、フランスはイタリア、フランドル、アルトワに対する請求を放棄、ブルゴーニュ公国をカールに割譲、二人の息子を人質としてスペインに送り、カール5世の姉レオノールとフランソワ1世との結婚に同意、さらにブルボン公から奪った領地の返還に同意した。またフランス王に「きわめてキリスト教的な国王」という称号があることを利用され、「ルター派のセクトや他の異端のセクトの間違いを正すために」ヘンリー8世にナバラ王位を諦める説得に同意させられた。 フランソワは3月6日に解放され、ラノワに警護されてフエンテラビーアまで移動した。3月18日、ビダソア川を渡りフランス境内に入った。ドーファンのフランソワとその弟アンリはルイーズとロートレックによりバイヨンヌへ連れていかれたが、代わりの人質としてスペインに送られることとなった。またこのごろ、フランソワの代表はイングランドのウルジーとハンプトン・コート宮殿で条約を締結して和解、翌年4月にグリニッジでの会談で条約を批准した。 しかし、フランソワはマドリード条約を守る気がなかった。3月22日、教皇の認可もとりつけて「脅されて署名したのでマドリード条約に縛られる必要はない」と宣言した。このごろ、皇帝の権力の増長を恐れたクレメンス7世はフランソワ1世とヘンリー8世に使者を送り、対皇帝同盟を提案した。マドリード条約で何も得られなかったヘンリーは同盟に前向きだったが、フランソワと教皇はイングランドそっちのけで5月にコニャック同盟戦争をはじめた。ヘンリーはイングランド主導の同盟締結に失敗したことで教皇との関係が疎遠になり、イングランドは1527年にようやく参戦するのであった。フランスは最終的にはイタリア戦争の目的を達成できなかったが、フランソワ1世とその後継者アンリ2世はミラノへの主張をイタリア戦争を通して取り下げず、1559年のカトー・カンブレジ条約でようやくイタリアを放棄した。
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マドリード条約
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「マドリード条約 (1667年)」の記事における「マドリード条約」の解説
このように悲惨な状況におかれたスペインは数か月後にようやくイングランドとの講和に動き出し、ファンショーの条約が(いくつかの相違点を除き)またしても持ち上がった。イングランドが1630年のマドリード条約(スペイン語版)を更新することを拒否したため、両国は新しい条約を2つ締結した。1つは通商条約で、もう1つはイングランドによるポルトガルとスペインの停戦仲介を予想した上での合意である。 スペインがマドリード条約で大きく譲歩した結果、イングランドは最恵国待遇を獲得、スペインのヨーロッパにおける貿易ではネーデルラント連邦共和国と同様の待遇を得た。イングランドはさらに喜望峰のどちら側(東か西)の植民地から持ち込まれた品物にかかわらず、スペインに持ち込むことが許された。これはファンショーの条約では記載されていない条項である。
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