マドリード条約とは? わかりやすく解説

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マドリード条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 02:36 UTC 版)

第三次イタリア戦争」の記事における「マドリード条約」の解説

パヴィア敗戦の後、フランス王ひいてはフランス運命は、熾烈な外交駆け引き争われた。カール5世戦争支出払えず、資金捻出のためにイザベラ・フォン・ポルトゥガル結婚した。これによりヘンリー8世約束したテューダー家との婚約破棄されたが、ポルトガル王女選んだのは持参金金額が上だったためだったブルボン公ヘンリー8世フランス分割陰謀練り同時にペスカーラナポリ侵攻しイタリア王即位するようそそのかしたフランスでは摂政ルイーズ・ド・サヴォワ兵士資金集めイングランド軍のアルトワ未然防げた。またはじめてフランス使節団オスマン帝国送りスレイマン1世助け求めようとしたが、使節団ボスニア行方不明になった12月に再びジャン・フランジパーニ(英語版)などを含む使節団送った今度は無事オスマン帝国首都コンスタンティノープル着き秘密の親書送付した親書にはフランソワ1世救出ハプスブルク家攻撃などの要請盛り込まれていた。フランジパーニはスレイマン1世返信持って1526年2月6日帰国フランス・オスマン同盟英語版)の第一歩となったスレイマンその後カール最後通牒送りフランソワ1世即時解放神聖ローマ帝国からの年貢要求した。それが断られると、オスマン帝国1526年夏にハンガリー侵攻ウィーンへと進軍したフランソワカール直談判すれば解放されるとの確信持ってペスカーララノワナポリヌオヴォ城英語版ではなくスペイン幽閉されることを求めたブルボン公陰謀気がかりだった二人同意して6月12日フランソワバルセロナ護送したフランソワははじめバレンシア近くのベニサノ(英語版)で囚われていたが、イタリア反乱危惧するモンモランシーラノワの強い要請推されカールフランソワマドリード移動させた。しかし、カールフランソワ条約受諾するまで面会しない、と強い拒否示した一方フランソワ1世同じくパヴィアの戦い捕虜となりマドリード囚われていたナバラ王エンリケ2世脱出した。彼は帰国したスペインナバラ侵攻続きカールバス=ナヴァール南端占領したカールフランソワ1世対しロンバルディアだけでなくブルゴーニュプロヴァンス割譲求めたが、フランソワは「フランスの法律では、フランス王冠領を高等法院許可なく放棄することは許されない」と強弁し、また高等法院許可下さないだろうと予想した9月フランソワ重病になった彼の姉はマルグリット・ド・ナヴァル看病のためパリからスペインまで急行したフランソワ1世診察した帝国医者たち皇帝受け入れられなかった悲しみから病気になったとし、カール5世お見舞いするよう求めた帝国宰相のメルクリーノ・ガッティナーラ(英語版)は「死の床でようやく面会に行くことは同情ではなく現金な行いであり、皇帝がすべき行動ではない」と猛反対したが皇帝お見舞い同意しフランソワ容態その後快方向かった。しかし、脱走には失敗しマルグリット強制送還される結果となった1526年のはじめ、カールヴェネツィア教皇からフランチェスコ2世・スフォルツァ英語版)をミラノ公位に復帰させるよう強く求められ次の戦争が始まる前にフランス和平する必要が出てきた。一方フランソワブルゴーニュ維持堅持ようとした失敗したため、自らが解放されるために徐々にブルゴーニュ放棄視野に入れるようになった1526年1月14日カールフランソワはマドリード条約に署名しフランスイタリアフランドルアルトワ対す請求放棄ブルゴーニュ公国カール割譲二人の息子人質としてスペイン送りカール5世の姉レオノールフランソワ1世との結婚同意、さらにブルボン公から奪った領地返還同意した。またフランス王に「きわめてキリスト教的な国王」という称号があることを利用され、「ルター派セクトや他の異端セクト間違い正すために」ヘンリー8世ナバラ王位諦め説得同意させられた。 フランソワ3月6日解放されラノワ警護されてフエンテラビーアまで移動した3月18日ビダソア川渡りフランス境内入ったドーファンフランソワとその弟アンリルイーズロートレックによりバイヨンヌ連れていかれたが、代わり人質としてスペイン送られることとなった。またこのごろフランソワの代表はイングランドのウルジーとハンプトン・コート宮殿条約締結して和解翌年4月グリニッジでの会談条約批准した。 しかし、フランソワはマドリード条約を守る気がなかった。3月22日教皇認可とりつけて脅され署名したのでマドリード条約に縛られる要はない」と宣言したこのごろ皇帝権力増長恐れたクレメンス7世フランソワ1世ヘンリー8世使者送り、対皇帝同盟提案した。マドリード条約で何も得られなかったヘンリー同盟前向きだったが、フランソワ教皇イングランドそっちのけで5月コニャック同盟戦争はじめたヘンリーイングランド主導同盟締結失敗したことで教皇との関係が疎遠になり、イングランド1527年にようやく参戦するであったフランス最終的にイタリア戦争目的達成できなかったが、フランソワ1世その後継者アンリ2世ミラノへの主張イタリア戦争通して取り下げず1559年カトー・カンブレジ条約でようやくイタリア放棄した

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マドリード条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 05:23 UTC 版)

マドリード条約 (1667年)」の記事における「マドリード条約」の解説

このように悲惨な状況におかれたスペインは数か月後にようやくイングランドとの講和動き出し、ファンショーの条約が(いくつかの相違点除きまたしても持ち上がったイングランド1630年のマドリード条約(スペイン語版)を更新することを拒否したため、両国新し条約2つ締結した1つ通商条約で、もう1つイングランドによるポルトガルとスペイン停戦仲介予想した上で合意である。 スペインがマドリード条約で大きく譲歩した結果イングランド最恵国待遇獲得スペインヨーロッパにおける貿易ではネーデルラント連邦共和国同様の待遇得たイングランドはさらに喜望峰のどちら側(東か西)の植民地から持ち込まれ品物かかわらずスペイン持ち込むことが許された。これはファンショーの条約では記載されていない条項である。

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