プロレスリングノア設立 - 最期とは? わかりやすく解説

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プロレスリング・ノア設立 - 最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:48 UTC 版)

三沢光晴」の記事における「プロレスリング・ノア設立 - 最期」の解説

2000年5月28日臨時取締役会において三沢社長解任された。6月入って東京スポーツが「三沢 社長解任」と報道し同月13日三沢定例役員会において取締役退任申し出これをもって三沢全日本退団することになった三沢は既に退団後に新団体設立する構想抱いており、16日行われた記者会見において改め全日本退団発表すると、自身含めて会見同席したレスラー24人で新団体設立することを宣言した当初三沢構想居酒屋経営しながら5人の新人育成し、3試合ほどの小さな興行を催すというものであったが、三沢以外に9人いた取締役のうち5人が三沢追随して退任するなど社内から三沢行動同調する者が続出全日本退団して新団体参加するレスラー練習生含め26人にのぼり、スタッフ含めて50人近く賛同者出た一方全日本への残留表明した選手川田利明渕正信2人に、当時留学生扱いだったマウナケア・モスマン含めた3人だけだった予想より多く選手が新団体への参加表明したため三沢仲田龍と共に資金繰り苦しみ三沢自身保険解約し、さらに自宅担保に金を借り入れて選手たち給料充てた。その後18日催された「ジャンボ鶴田メモリアル献花式」において、鶴田夫人保子今回の件について、「主人生きていたら、三沢君の行動支持していたと思いますでも、三沢君に全日本の名前を潰す権利はない」とコメントした7月4日、新団体の名称は「プロレスリング・ノア」(由来『創世記』登場するノアの方舟)に決まったことが発表され三沢記者会見において自身目指す理想プロレス」について、「抽象的ですが、選手ファンどっちも楽しめるプロレス目指しいきたい思います」と語った8月5日ディファ有明旗揚げが行われ、当日チケットはわずか20分で完売し前日夜の時点当日券求め100人以上のファンが列をなし、前売券完売した当日三沢指示急遽会場外の駐車場大型ビジョン設置しチケットが手に入らなかったファンのために無料視聴できるサービス展開し1300人が大型ビジョン観戦したディファ有明三沢行動をともにした仲田龍と関係の深い施設で、ノア事務所道場もここに置かれた。 なお、三沢には全日本退団後に興行主プロモーター)が主催する売り興行出場する契約があったため、その興行主への配慮から7月全日本大会4日出場している。全日本所属選手として最後試合となったのは20日博多スターレーンでの試合となったが、13日愛媛県松山市アイテムえひめ行われた試合では、試合終えて退場する際に観客から「裏切り者」と罵声浴びせられた。これに対し三沢は「お前にとっての裏切り者ってどういうものなのか聞いてみたいよ」、「オレ人生その人保証してくれるのか」と怒り露わにした。 仲田龍いわく、ノア旗揚げ後三沢は常に体調悪く思うよう練習できない日々続いた。しかし、三沢ノア旗揚げ以降1度試合欠場せず、GHCヘビー級王座3度初代5代11代)、また小川良成とのコンビGHCタッグ王座2度2代8代獲得2007年にはGHCヘビー級王者として1年間防衛続けそれまで縁のなかったプロレス大賞MVP当時史上最年長45歳)で選出された。また2009年5月6日には潮崎豪とのコンビ第2回グローバル・タッグ・リーグ戦」の優勝果たした三沢激し試合代償視神経脳神経ダメージが及び、全日本時代から思った通り言葉出ない日中でも立ちくらみがするといった症状悩まされていたが、晩年頸椎骨棘呼ばれる状の軟骨増殖して下を向くことも後ろ振り向くことも困難になり、右目に原因不明視力障害が起こるなど体力面の不安が深刻化した。頚部は歯を磨く、ガウンの襟の部分が当たる、寝返りを打つだけで痛みが走る状態にあり、さらに肩、腰、膝にも慢性的な痛み抱えていた。この頃三沢周囲に「辞めたい」「引退したい」と口にすることが多くなっていたが、生前三沢親交があった徳光正行によると、一度自ら休養することを進言したことがあったが、その時三沢から次のように反論されたという。 地方に行くとタイガーマスクだった三沢超世代軍鶴田戦っていた三沢―つまりテレビプロレス中継充実していた頃の三沢光晴を観に来てくれるお客さんがいるんだよ。そういう人たちが、1年1回しか地元に来ないプロレス興行を観に来て、俺が出てなかったらどう思う? — 徳光2010203頁。 2009年6月9日東京スポーツ取材応じた三沢は「もうやめたいね。体がシンドイいつまでやらなきゃならないかなって気持ち出てきた。」と吐露していた。それから4日後の6月13日三沢広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)で行われたGHCタッグ選手権試合挑戦者として出場(【王者チームバイソン・スミス齋藤彰俊 vs挑戦者チーム三沢潮崎豪)。試合中齋藤急角度バックドロップ受けた後、意識不明心肺停止状態陥ったリング上で救急蘇生措置施された後、救急車広島大学病院搬送されたが、午後10時10分に死亡確認された。46歳没。三沢意識を失う前にレフェリー西永秀一が「試合止めるぞ!」と問い掛けた際に、かすかに止めろ…」と応じたのが最後の言葉となった。 翌14日広島県警察広島中央警察署は、三沢遺体検視した結果死因バックドロップによって頭部強打したことによる頸髄離断けいずいりだん)であると発表した週刊ゴング編集長小佐野景浩日本複数プロレス団体リングドクター務め林督元は、三沢受けたバックドロップ自体危険なものではなく受け身もとれており、三沢の死は事故であったという見解示している。一方でプロレス関係者ファン中には三沢の死は過激な試合繰り返したことで蓄積したダメージによって引き起こされたものであり、「頭から落とす四天王プロレス帰着点」であると捉える者もいた。前田日明は「不運な事故ではない」と明言し、「三沢落ちた瞬間に、全身バッと青ざめた」という証言伝えている。一方でザ・グレート・カブキは、「(バックドロップマット叩きつけられて)首がいったくらいで即死はないと思うんですよ」とし、齋藤に体を持ち上げられ瞬間心筋梗塞がきたのではないか推測している。蝶野正洋当時三沢体調面の問題だけでなく、「(2005年亡くなった橋本(真也)選手のように、経営者としての心労大きかったではないか」と思ったといい、加えて試合治療追われ身体休めることができなかったことで、過労死のような形に近かった受け取っていると述べている。

※この「プロレスリング・ノア設立 - 最期」の解説は、「三沢光晴」の解説の一部です。
「プロレスリング・ノア設立 - 最期」を含む「三沢光晴」の記事については、「三沢光晴」の概要を参照ください。

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