パラ競泳を本格的に開始してから
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 04:35 UTC 版)
「富田宇宙」の記事における「パラ競泳を本格的に開始してから」の解説
そんな折に出会ったパラ水泳は、少しずつ活力を与えた。水泳のトレーニングを徐々に本格化。同時期に2020東京オリンピック・パラリンピック開催が決定したことで、「途中でこういう(障害者という)立場になった人が努力する姿を発信できれば」と出場を目指した。 健常者としての水泳の経験を生かしつつ、7年に及ぶブランクをハードなトレーニングで補った。システムエンジニアとして働くかたわら、再び始めた水泳は、最初、戸惑うことばかり。ダンスと水泳とでは筋肉のつけ方がまるで異なる。筋肉をつけることから始め、ようやく自信ができてきたのは3年目。2015年に初めて基準記録を突破し、身体障がい者水泳連盟の強化選手となった。同年9月、パラアスリートとして競技に専念するためEYアドバイザリー株式会社(現:EYアドバイザリー・アンド・コンサルティング株式会社)に転職。11月に初の国際クラス(S13、SB13、SM13)を取得すると、直後に行われた日本選手権で男子400m自由形(S13)、男子100mバタフライ(S13)の2種目でアジア新記録を樹立した。その後はS13(視覚障がい/軽度の弱視)クラスのスイマーとして競技に没頭、国内では負け知らずの躍進を見せた。 またこの時期から競技と並行して、パラスポーツへの多くの人の理解を広めようと、シンポジウムや講演会などに積極的に参加している。「一番苦しかったとき、どう乗り越えたのか、一番うれしかったのはどんなとき、そうしたことを通して夢を持つ大切さ、仲間と協力する大切さを伝えたい。」との思いから、試合や練習の都合がつけば全国の学校等を訪ねて、自らの体験を語っている。 更に障害者理解を求める活動の一環として、友人の誘いでブラインドダンスのサークルに参加したのをきっかけに同年8月の全日本ブラインドダンス選手権大会に出場。男性の部チャチャチャ、ルンバの2種目で優勝した。これを機にブラインドダンサーとしての活動も始めることとなった。 2016年3月、リオデジャネイロパラリンピック代表選考戦に出場。2種目でアジア記録と1種目の日本記録を更新するも派遣標準記録を突破できず代表に落選した。 その後、世界のトップを取るための道筋として、2017年4月、日本体育大学大学院博士前期課程に入学し、日本財団パラアスリート奨学金一期生となり、大学水泳部に入部した。専攻はコーチング学、研究テーマは「障がい者トップアスリートの指導者に求められる能力に関する研究」。「世界的にパラリンピックのパフォーマンスが上がってきている中で、パラリンピック選手の指導者に求められているものも変化してきています。そこで世界のメダリストたちはどんなコーチに習っているのか、指導者にどんな能力を求めているのかを解き明かすことを目指して研究をしています。リハビリテーションとしての活動から競技スポーツに変化する課程においては、競技の専門的な知識が必要になってきます。現にパラリンピックでメダルを狙う選手たちの中にはオリンピック選手や、オリンピック選手を教えているコーチに指導を受けている選手もいます。水泳は障害のある人もない人も取り組めるスポーツなので、道具も使わないし技術的に共通する部分が多く、オリンピック選手を育成できるような専門知識とパラリンピックや障害についての理解を併せ持つ指導者が理想と言われています。そのような指導者の育成には横断的な学びの機会が必要で、それができている国は良い結果を出す傾向にあります。指導者や選手が交流し情報を交換すること、オリンピックとパラリンピックがより連結したものになることが重要です。」と語る。 同年7月、パラワールドシリーズベルリン大会にて2度目の国際クラス分けを受験し、障がいの進行でクラスがS11、SB11、SM11に変更された。それを受けて9月の世界パラ選手権の代表に緊急招集されることとなった。 「思っていたよりも早い時期のクラス変更で、正直戸惑いました。」S13クラスでは代表レベルに満たなかった泳力は、S11クラスでは一転して世界トップクラス。直後のジャパンパラ水泳競技大会では、400m自由形で当時の世界ランキング1位の記録をマークするなど躍動。一躍、東京パラリンピックのメダル候補に躍り出た。「自分自身を見失わないように意識しています。常に向上し続けたいという思いは、クラス分けの前後で変わることはありません。 障がいが進行したことで、日常生活は着実に不便になっていますが、競技の面では幸運だったと言わざるを得ません。だからこそ、この機会を活かさなくてはいけない。恥ずかしい泳ぎはできない、という責任感を持って日々の練習に取り組んでいます。」と富田は語っている。 同年8月、前年に続いて全日本ブラインドダンス選手権大会に出場。男性の部チャチャチャ、ルンバで2連覇を達成した。 同年9月、世界パラ選手権に出場するためメキシコへ渡ったが、大会直前に発生した大地震の影響で出場見送りとなり緊急帰国した。 同年11月、バルカーカップ統一全日本ダンス選手権大会にてブラインドダンスエキシビションに出演、白杖を用いた視覚障害者ならではのデモンストレーションを披露し会場を沸かせた。 2018年8月、パンパシフィックパラ水泳選手権に出場、3つの金メダルを獲得した。 その直後、日本テレビ「24時間テレビ 「愛は地球を救う」」に出演。タレントの佐藤栞里とペアを組み、全日本ブラインドダンス選手権大会男性の部ルンバに出場し3連覇を果たした。 同年10月、アジアパラ大会で男子100m自由形(s11)で金メダル、男子200m個人メドレー(SM11)、男子50m自由形(S11)で銀メダルを獲得した。 同年11月、障害者のファッションショー、Kumamoto Smile Collectionにスペシャルゲストモデルとして出演。パラ陸上競技の大西瞳とともに会場を盛り上げた。 2019年3月、日本体育大学大学院博士前期課程を終了し、同年4月に博士後期課程に進学した。 2019年7月、練習拠点を大学水泳部から「ナショナルトレーニングセンター(NTC)」に変更、個人練習に切り替えた。「大学の部活というハイレベルな環境も良かったのですが、ロープをたどって泳ぐ時の効率性を追求するトレーニングは、集団の中ではなかなかできない。1人で1レーンを使うことで、全盲の状態で泳ぐということに、これまで以上に焦点をあてて練習に取り組んでいます」という。 同年9月、世界パラ選手権男子400m自由形(S11)、男子100mバタフライ(S11)の2種目で銀メダルを獲得した。 帰国後あらゆることを見直した。練習拠点としていた日本体育大学の水泳部から離れ、現日本代表監督の上垣匠コーチに師事。東京パラリンピックでの勝負を見据えて、身体改造にも着手し、泳ぎのフォームも改良を重ねている。「実力が世界で戦えるレベルにあることは嬉しいが、日本チームは世界で苦戦している。世界が強いこと、日進月歩で伸びていることを肌で感じた。そこに追い抜け追い越せで、もう一度、あと一年で、できることをやっていかなくてはと思います」と語る。 2020年4月、東京パラリンピックが延期となり、新型コロナウイルスによる自粛期間中、東京の練習拠点が閉鎖されたため、地元・熊本で練習。実家の庭に設置したプールでの練習を自身のSNSにアップし、話題を集めた。小型の簡易プールを購入して庭に設置。腰にゴムチューブを着けて体の位置を固定し、"その場泳ぎ"のスイム練習を毎日1時間ほどこなした。さらに自室で筋力トレーニングに没頭。練習環境を自ら整え、非常事態に対応することができた。 パラリンピックの存在意義を広めるために、積極的にSNSの発信を続ける中で「上を向いて歩こう」の替え歌を投稿。「上を向いて泳ごう 頭をぶつけないように…」などと、実家の庭で練習している自身の姿を歌詞にしている。更にSNSに投稿した医療従事者等へのメッセージは国連の新型コロナ対策サイトで紹介された。
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