セヴァストポリ攻囲 - 1942年夏とは? わかりやすく解説

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セヴァストポリ攻囲 - 1942年夏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 04:45 UTC 版)

クリミアの戦い (1941年-1942年)」の記事における「セヴァストポリ攻囲 - 1942年夏」の解説

1月ケルチ半島での対応と反攻為にマンシュタインセヴァストポリ戦線から2個師団以上を引き抜き12月総攻撃大出血をして前進させたセクターIIIセクターIV前線防御可能な地点まで後退させたが、これは、ヒトラーを非常に苛立たせた。しかし、マンシュタインケルチ反撃を行うためには必要な戦術的措置だと、ヒトラー渋々納得させた。 1月から、両軍とも戦闘焦点ケルチ半島移りセヴァストポリ戦線第一次世界大戦西部戦線思わせるような塹壕対峙戦の様相であったその間ペトロフへはコーカサスからの補給増援続いており、スターリンとメフリスは、ペトロフケルチ半島コズロフ呼応して攻勢をかけることを求め何度攻勢行われたが、ドイツ軍防衛固く大勢影響与えることは出来なかった。 1月から4月の間、ソ連軍ケルチ半島クリミア方面軍膨大な資材人員をつぎ込んだが、5月ケルチでの大敗でそれらはなくなってしまった。同じ5月に、ソ連軍は、ウクライナのバルベンコボ攻勢でも大敗して、軍は弱体化していた。次に来るのはセヴァストポリであることは明白だったが、ソ連側には打つ手はあまり残っていなかった。 ドイツ側では、すでに夏季攻勢計画ブラウ作戦詳細作戦開始日(6月28日)は決まっており、マンシュタインには、セヴァストポリブラウ作戦開始前陥落させることが求められていた。VIII航空軍団による集中支援ブラウ作戦開始前までだと、マンシュタインヒトラーに釘をさされていた。 セヴァストポリ防衛陣地を砕くために、本国兵器庫から第一次大戦当時旧式砲やチェコスロバキアから接収した攻城砲など雑多な種類大口径砲集められた。その中には80cm列車砲グスタフ、60cmカール自走臼砲 3台、42cm クルップ・ガンマ榴弾砲、42cm シュコダM17榴弾砲、35.5cm ラインメタルM1榴弾砲などが含まれていたが、それらの砲はいずれ限定量の砲弾しかなかった。グスタフは、セヴァストポリ48発発射したが、今日ではほとんど戦果はなかったとされている。砲兵主力は、砲弾十分にあるシュコダ30.5cm臼砲 16門、シュコダ製14.9cm s.FH 37(t)榴弾砲 16であった。これらの軍直轄砲兵LIV軍団砲兵は、ヨハネス・ズッカートート中将指揮下に置かれた。 6月時点で、セヴァストポリソ連軍は約10万人で、そのうち戦闘部隊は約6.5万人であった一方枢軸軍は、時計方向順にLIV軍団(132,22,50,24)がセクターIVセクターIII,ルーマニア山岳軍団(18,4山岳,1山岳)がセクターIIXXX軍団(72,170,28軽)がセクターII一部とIで、総計20万人であったドイツ軍セヴァストポリ攻略作戦Störfangは、6月2日開始された。最初5日間は砲爆撃だけで、セクターIIIセクターIV目標に対して重点的に行われた6月7日、約1時間事前砲撃の後、LIV軍団歩兵前進始まった東北から南西にはしるKamyschly渓谷を、132,22,50師団強襲グループが横切る形で進んだ132師団目標はベルベック河口にある沿岸砲3022,50師団目標はMekenzievy山鉄道駅である。22師団50師団大損害を出しながら前進続け9日にMekenzievy山鉄道駅占領した132師団は、ソ連95師団防衛陣地阻まれて、さほど前進できなかった。3日間の攻勢で、LIV軍団は、6024人の損害(死者1383人を含む)を出したセクターIIIIVでのソ連軍の反攻11日行われたが、各部隊攻撃連携欠いており失敗しただけでなく、前進してきたソ連軍歩兵退却の際にドイツ空軍攻撃の的になり大損害をだした。13日に、大口径砲による砲撃の後、22師団はフォート・スターリンを攻撃し占領した14日より、132師団戦線24師団の4個大隊46師団の2個大隊充当しソ連95師団陣地攻撃して17日132師団沿岸砲30前面到達し,20日には沿岸砲30制圧された。21日には、ドイツ軍はセベルナヤ湾の北岸到達しセクターIV全体ドイツ軍の手落ちた東側XXX軍団戦線では、6月7日に第28軽歩兵師団による探索攻撃が行われたが、損害出したけだった11日から13日の間に、XXX軍団徐々に前進してイタリア高地チャペル・ヒルとフォート・クッペ(ドイツ軍呼称)を占領した18日から21日の間に、ルーマニア山岳軍団は、チェルナヤ川沿いイタリア高地攻撃して、これを占領した16日には、80cm,60cm,42cmの砲は、砲弾をすべて使いきってしまった。23日には、ブラウ作戦準備為にVIII航空軍団の主力クリミアから去った23日時点で、ドイツ軍はセベルナヤ湾の北岸占領したが、ソ連軍は、インケルマン(セヴァストポリ市街の東隣にある街区)とサプン高地(セヴァストポリ市街の南および南東)を保持していた。LIV軍団の各師団損害大きく攻撃力使い切った状態に近く、インケルマンの攻略困難に思われた。そこで、マンシュタインは、Trappenjagdでやったように舟艇部隊使ってセベルナヤ湾南岸夜間奇襲上陸をかけることにした。 28日夜、XXX軍団は、サプン高地全力での夜襲をかけ、29日未明までにサプン高地占領した29日未明22師団132師団の1個連隊相当は強襲舟艇部隊により、セベルナヤ湾の南岸奇襲上陸したソ連軍は、ドイツ軍動き検知できず対応が遅れ、上陸阻止することは出来なかった。29日50師団は、インケルマンを攻撃しセベルナヤ湾南岸上陸した部隊連結し、インケルマンは占領された。同じ頃、ソ連軍集められる予備部隊をかき集めて、サプン高地奪回為の反撃おこない一時奪回したが、午後にドイツ軍撃退された。夕刻ペトロフスタフカに、セヴァストポリ保持不可能と打電しその夜スタフカセヴァストポリ放棄承認した。オクチャーブリスキーが反対したので、黒海艦隊によるケルチダンケルクのような撤退作戦行われないことになったスターリンは、将官脱出命じ7月1日未明師団長クラス上の多く将官は、輸送機潜水艦セヴァストポリ脱出した7月1日に、ドイツ軍セヴァストポリ市街へ進み市街戦の後、午後には市の中央部ドイツ軍占領された。同日夜、ベルリン放送セヴァストポリ陥落発表したセヴァストポリ陥落の際に、市中には多数負傷ソ連兵がいたが、相当な数が銃弾処理された。後に、コルティッツ大佐(22師団16連隊長)が語ったところでは、セヴァストポリ陥落後、約3万人ユダヤ人おそらくは負傷ソ連兵捕虜政治将校)を殺害したという。おおよそ5万人近ソ連軍将兵がチェルソネーズ半島立て籠もっていたが、4日にはこれらのソ連軍除去された。 33日間Störfangで、ドイツ第11軍は35866人(死者行方不明5786人を含む)の損害出したルーマニア軍は、8454人(死者行方不明1874人を含む)の損害出したドイツ軍資料によればソ連軍は97000人の捕虜出し少なくとも18000人の死者をだした。

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