セヴァストポリ攻囲 - 1942年夏
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「クリミアの戦い (1941年-1942年)」の記事における「セヴァストポリ攻囲 - 1942年夏」の解説
1月のケルチ半島での対応と反攻の為に、マンシュタインはセヴァストポリ戦線から2個師団以上を引き抜き、12月の総攻撃で大出血をして前進させたセクターIIIとセクターIVの前線を防御可能な地点まで後退させたが、これは、ヒトラーを非常に苛立たせた。しかし、マンシュタインはケルチで反撃を行うためには必要な戦術的措置だと、ヒトラーを渋々納得させた。 1月から、両軍とも戦闘の焦点はケルチ半島に移り、セヴァストポリ戦線は第一次世界大戦の西部戦線を思わせるような塹壕対峙戦の様相であった。その間もペトロフへはコーカサスからの補給・増援が続いており、スターリンとメフリスは、ペトロフにケルチ半島のコズロフと呼応して攻勢をかけることを求め、何度か攻勢は行われたが、ドイツ軍の防衛は固く大勢に影響を与えることは出来なかった。 1月から4月の間、ソ連軍はケルチ半島のクリミア方面軍に膨大な資材と人員をつぎ込んだが、5月のケルチでの大敗でそれらはなくなってしまった。同じ5月に、ソ連軍は、ウクライナのバルベンコボ攻勢でも大敗して、軍は弱体化していた。次に来るのはセヴァストポリであることは明白だったが、ソ連側には打つ手はあまり残っていなかった。 ドイツ側では、すでに夏季攻勢計画ブラウ作戦の詳細と作戦開始日(6月28日)は決まっており、マンシュタインには、セヴァストポリをブラウ作戦の開始前に陥落させることが求められていた。VIII航空軍団による集中支援はブラウ作戦の開始前までだと、マンシュタインはヒトラーに釘をさされていた。 セヴァストポリの防衛陣地を砕くために、本国の兵器庫から第一次大戦当時の旧式砲やチェコスロバキアから接収した攻城砲など雑多な種類の大口径砲が集められた。その中には、80cm列車砲グスタフ、60cmカール自走臼砲 3台、42cm クルップ・ガンマ榴弾砲、42cm シュコダM17榴弾砲、35.5cm ラインメタルM1榴弾砲などが含まれていたが、それらの砲はいずれも限定量の砲弾しかなかった。グスタフは、セヴァストポリで48発発射したが、今日ではほとんど戦果はなかったとされている。砲兵の主力は、砲弾が十分にあるシュコダ30.5cm臼砲 16門、シュコダ製14.9cm s.FH 37(t)榴弾砲 16門であった。これらの軍直轄砲兵とLIV軍団砲兵は、ヨハネス・ズッカートート中将の指揮下に置かれた。 6月の時点で、セヴァストポリのソ連軍は約10万人で、そのうち戦闘部隊は約6.5万人であった。一方、枢軸軍は、時計方向順にLIV軍団(132,22,50,24)がセクターIVとセクターIII,ルーマニア山岳軍団(18,4山岳,1山岳)がセクターII、XXX軍団(72,170,28軽)がセクターIIの一部とIで、総計約20万人であった。 ドイツ軍のセヴァストポリ攻略作戦Störfangは、6月2日に開始された。最初の5日間は砲爆撃だけで、セクターIIIとセクターIVの目標に対して重点的に行われた。 6月7日、約1時間の事前砲撃の後、LIV軍団歩兵の前進が始まった。東北から南西にはしるKamyschly渓谷を、132,22,50師団の強襲グループが横切る形で進んだ。132師団の目標はベルベック河口にある沿岸砲台30。22,50師団の目標はMekenzievy山鉄道駅である。22師団と50師団は大損害を出しながら前進を続け、9日にMekenzievy山鉄道駅を占領した。132師団は、ソ連95師団の防衛陣地に阻まれて、さほど前進できなかった。3日間の攻勢で、LIV軍団は、6024人の損害(死者1383人を含む)を出した。セクターIIIとIVでのソ連軍の反攻は11日に行われたが、各部隊の攻撃は連携を欠いており失敗しただけでなく、前進してきたソ連軍歩兵は退却の際にドイツ空軍の攻撃の的になり大損害をだした。13日に、大口径砲による砲撃の後、22師団はフォート・スターリンを攻撃し占領した。14日より、132師団の戦線に24師団の4個大隊と46師団の2個大隊を充当し、ソ連95師団の陣地を攻撃して、17日に132師団は沿岸砲台30の前面に到達し,20日には沿岸砲台30は制圧された。21日には、ドイツ軍はセベルナヤ湾の北岸に到達し、セクターIV全体がドイツ軍の手に落ちた。 東側のXXX軍団の戦線では、6月7日に第28軽歩兵師団による探索攻撃が行われたが、損害を出しただけだった。11日から13日の間に、XXX軍団は徐々に前進してイタリア高地のチャペル・ヒルとフォート・クッペ(ドイツ軍呼称)を占領した。18日から21日の間に、ルーマニア山岳軍団は、チェルナヤ川沿いにイタリア高地を攻撃して、これを占領した。 16日には、80cm,60cm,42cmの砲は、砲弾をすべて使いきってしまった。23日には、ブラウ作戦の準備の為にVIII航空軍団の主力はクリミアから去った。23日の時点で、ドイツ軍はセベルナヤ湾の北岸を占領したが、ソ連軍は、インケルマン(セヴァストポリ市街の東隣にある街区)とサプン高地(セヴァストポリ市街の南および南東)を保持していた。LIV軍団の各師団は損害が大きく攻撃力を使い切った状態に近く、インケルマンの攻略は困難に思われた。そこで、マンシュタインは、Trappenjagdでやったように舟艇部隊を使ってセベルナヤ湾南岸に夜間奇襲上陸をかけることにした。 28日夜、XXX軍団は、サプン高地に全力での夜襲をかけ、29日未明までにサプン高地を占領した。29日未明、22師団と132師団の1個連隊相当は強襲舟艇部隊により、セベルナヤ湾の南岸に奇襲上陸した。ソ連軍は、ドイツ軍の動きを検知できず対応が遅れ、上陸を阻止することは出来なかった。29日、50師団は、インケルマンを攻撃しセベルナヤ湾南岸に上陸した部隊と連結し、インケルマンは占領された。同じ頃、ソ連軍は集められる予備部隊をかき集めて、サプン高地奪回の為の反撃をおこない一時奪回したが、午後にはドイツ軍に撃退された。夕刻、ペトロフはスタフカに、セヴァストポリの保持は不可能と打電し、その夜、スタフカはセヴァストポリの放棄を承認した。オクチャーブリスキーが反対したので、黒海艦隊によるケルチやダンケルクのような撤退作戦は行われないことになった。スターリンは、将官の脱出を命じ、7月1日未明に師団長クラス以上の多くの将官は、輸送機と潜水艦でセヴァストポリを脱出した。 7月1日に、ドイツ軍はセヴァストポリ市街へ進み、市街戦の後、午後には市の中央部はドイツ軍に占領された。同日夜、ベルリン放送はセヴァストポリの陥落を発表した。セヴァストポリ陥落の際に、市中には多数の負傷ソ連兵がいたが、相当な数が銃弾で処理された。後に、コルティッツ大佐(22師団16連隊長)が語ったところでは、セヴァストポリ陥落後、約3万人のユダヤ人(おそらくは負傷ソ連兵捕虜と政治将校)を殺害したという。おおよそ5万人近いソ連軍将兵がチェルソネーズ半島に立て籠もっていたが、4日にはこれらのソ連軍も除去された。 33日間のStörfangで、ドイツ第11軍は35866人(死者、行方不明5786人を含む)の損害を出した。ルーマニア軍は、8454人(死者、行方不明1874人を含む)の損害を出した。ドイツ軍資料によれば、ソ連軍は97000人の捕虜を出し、少なくとも18000人の死者をだした。
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