セヴァストーポリの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 17:38 UTC 版)
「タシュケント (嚮導駆逐艦)」の記事における「セヴァストーポリの戦い」の解説
セヴァストーポリにおける戦闘では、黒海艦隊で行われた数々の重要作戦に指揮艦として関わった。輝かしく、また悲劇的でもある大きな活躍を残したタシュケントの名は、その舷側からセヴァストーポリに降り立った海兵隊の兵士たち、一度ならず艦砲射撃で支援を受けた沿岸部隊、そしてその護衛によって命を救われた多くの船舶の指揮官に記憶されている。 セヴァストーポリの陸上防衛部隊は、増援部隊、火砲、弾薬、燃料、そして食料の継続的な供給を必要としていた。タシュケントは、その高速性能と高い機動力、そして強力な対空兵装で敵機から身を守った。また、1170トンという燃料搭載能力は、毎回その半分をセヴァストーポリに供給した。また、艦内空間が比較的広かったため多くの物資を積載することができた。ある支援作戦の際には最下甲板に鉄道車両を30輌近くも搭載したことがあった。これは重量で言えば700トンにも及ぶ過載であった。艦は時化に遭った際に波を越えることができず、艦上に襲い掛かる水の重量が第1最下甲板区画の甲板をへこませてしまった。裂け目が生じそこからは海水が流れ込んだ。しかし事故処理班はすぐさまこれを処理した。 ナチス・ドイツのセヴァストーポリ攻撃の第二波が行われた時期、主要基地にあったタシュケントは絶えず防衛部隊への援護射撃を行った。12月22日から24日にかけて、タシュケントは800発の砲弾を消費した。
※この「セヴァストーポリの戦い」の解説は、「タシュケント (嚮導駆逐艦)」の解説の一部です。
「セヴァストーポリの戦い」を含む「タシュケント (嚮導駆逐艦)」の記事については、「タシュケント (嚮導駆逐艦)」の概要を参照ください。
セヴァストーポリの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:30 UTC 版)
「チェルヴォナ・ウクライナ (軽巡洋艦)」の記事における「セヴァストーポリの戦い」の解説
セヴァストーポリへの帰還後、チェルヴォーナ・ウクライーナはセヴァストーポリ防衛地区艦隊へ組み込まれ、セヴァストーポリの防衛戦に従事することになった。11月5日には、指揮官として新たにI・A・ザルーバ2等大佐が任官した。 11月8日、セヴァストーポリの艦隊で初めて敵の攻撃により火の手が上がった。11月9日と10日には合わせて7 回の艦砲射撃を行い、9日には48発、10日には100発の砲弾を使用した。 11月12日、セヴァストーポリ軍港に停泊していたチェルヴォーナ・ウクライーナは、ユージュナヤ・ブーフタ(南湾)のグラーフ埠頭においてドイツ空軍の集中爆撃を受けた。攻撃の第1波では、本艦めがけ爆撃機から28発の爆弾が投下された。11時、チェルヴォーナ・ウクライーナは2 発の爆弾を艦の中央部に受けた。12時24分には、さらに3 発の至近弾を受けた。チェルヴォーナ・ウクライーナの艦首は浸水により顕著に沈下を始めた。しかし艦は戦闘を続け、何とか航行に耐えた。このとき、すでに70 名の乗員が死亡していた。艦内は次第に浸水が激しくなっていったが、応急処置で艦の沈没を遅らせ、飛来するさらなる敵機も撃退した。 空襲は夕闇の訪れるまで続いた。チェルヴォーナ・ウクライーナは両舷にそれぞれ1箇所の大きな弾孔を穿たれ、艦内には3000 t近くの海水が流入していた。11月13日未明、艦の左舷方向への傾斜は限界の40度に達し、ザルーバ艦長は司令部の命令として総員退艦を命じた。午前4時、最後の艦載艇が巡洋艦から離れたとき、巡洋艦は転覆して艦首より海中へ没した。この日の空襲は激しいもので、チェルヴォーナ・ウクライーナの他に4 隻の駆逐艦と4 隻の輸送艦、そして潜水艦S-32とShch-214が失われた。 チェルヴォーナ・ウクライーナの乗員はセヴァストーポリ防衛部隊に組み入れられ、12月17日には艦から降ろされた13 cm主砲をもって4 つの砲兵部隊が編成された。チェルヴォーナ・ウクライーナは、終戦後に至るまでユージュナヤ・ブーフタの水底に横たわっていた。そして、これが大祖国戦争で失われた唯一のソ連巡洋艦となった。
※この「セヴァストーポリの戦い」の解説は、「チェルヴォナ・ウクライナ (軽巡洋艦)」の解説の一部です。
「セヴァストーポリの戦い」を含む「チェルヴォナ・ウクライナ (軽巡洋艦)」の記事については、「チェルヴォナ・ウクライナ (軽巡洋艦)」の概要を参照ください。
- セヴァストーポリの戦いのページへのリンク