セヴァストーポリの蜂起
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「トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の記事における「セヴァストーポリの蜂起」の解説
その後、チュフニーンは「熱意に欠ける」としてすべての指揮官を罷免した。また、信用できない水兵らを隔離するために長期間の演習航海を実施させた。この遠征には、海軍大臣A・A・ビリリョーフ海軍中将も参加した。艦隊装甲艦ロスチスラフに司令官旗が掲げられ、トリー・スヴャチーチェリャ、ドヴェナッツァチ・アポーストロフ、エカチェリーナ2世、シノープ、チェスマ、司令部船エリクリク、機雷敷設艦ドゥナーイ、水雷巡洋艦カピターン・サーケンならびに6 隻の水雷艇駆逐艦が続いた。演習は9日間アナトリア半島沖で続けられ、10月19日に艦隊は港へ戻った。 ポチョムキンの叛乱の時期、黒海艦隊ではいくつものより小規模な叛乱や騒擾事件が発生したが、それらはいずれも鎮圧された。ところが、その影響はロシア帝国各地に現れ始めた。バルト艦隊でもいくつかの艦船で騒擾が発生し、各都市でも政情不安が生じた。いくつもの主要都市で、兵士による蜂起が発生した。10月下旬にはクロンシュタットにて第二の叛乱が発生し、その後、黒海艦隊にてかねてより計画されていた全面的な蜂起が決行されることとなった。 艦隊に充満する不穏な空気に対し、チュフニーンは艦隊の「任務に対する誠実性」を揺るがすものとして、断固たる態度で臨んだ。すなわち、蜂起の首謀者には死を賜る考えであった。 10月21日には政府より大赦の布告が出されたが、ちょうどこの日の夕刻、チュフニーンは蜂起計画の首謀者と目されるP・P・シュミット海軍中尉を逮捕させた。シュミットはトリー・スヴャチーチェリャ艦上へ送致されたが、人々に対して注意を促す文書を発表した。すなわち、死につつあるツァーリの官僚主義からの自由についての勅書を待つべきではない、と。そして、「時代遅れの体制の最後の日々」に決別し、人民が自分たちの秩序と自由を建設するよう「自由なる人民」に決起を促した。 11月11日、セヴァストーポリで革命の赤旗が掲げられ、水兵らが蜂起を起こした。シュミット中尉に先導された蜂起は建造中の巡洋艦オチャーコフで発生し、逮捕されていたかつてのポチョムキンの船員らもこれに加わって叛乱は激化した。トリー・スヴャチーチェリャの水兵は、パンテレイモン、ロスチスラフ、ドヴェナッツァチ・アポーストロフ、エカチェリーナ2世、シノープ、ドゥナーイ、カピターン・サーケン、パーミャチ・メルクーリヤ、スヴィレープイなど他艦の水兵とともにシュミットの蜂起に同調した。 そのうち、ロスチスラフ、ドヴェナッツァチ・アポーストロフ、トリー・スヴャチーチェリャの水兵が政府側に寝返り、この「信頼された有象無象」が蜂起を妨げることとなった。政府装甲艦隊は蜂起の中心であった巡洋艦オチャーコフを包囲し、これを炎上させた。 こうしてこの大規模な叛乱は政府軍によって鎮圧されたが、その後もロシア帝国各地で叛乱が続いた。12月8日にはノヴォロシースクでゼネストが開始されたが、それは12月12日のノヴォロシースク共和国の樹立宣言に発展した。12月16日には政府軍が派兵されたが、鎮圧に失敗した。12月25日には討伐軍が派遣され、湾には黒海艦隊より派遣されたトリー・スヴャチーチェリャが碇を下ろした。ノヴォロシースク共和国ソヴィエト(評議会)は占拠していた総督府を放棄して町から撤退、叛乱は鎮圧された。 1906年6月28日には、チュフニーン提督がポチョムキンの報復として暗殺された。1907年5月には、黒海艦隊にて装甲艦パンテレイモン、ロスチスラフ、シノープ、トリー・スヴャチーチェリャにて蜂起の準備が進められているのが発覚した。首謀者らは逮捕され、徒刑に処せられた。それでも、同年9月にはセヴァストーポリで新たな蜂起が試みられた。
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