ザ・ゴールデン・カップス
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ザ・ゴールデン・カップス(The Golden Cups)は、1966年12月、神奈川県横浜市でデイヴ平尾を中心に結成されたグループ・サウンズである。
注釈
- ^ 『スプーキー』をカバーした
出典
- ^ “ケネス伊東”. www.studio-g3.com. 2024年2月3日閲覧。
- ^ “気ままに生きる(162/203) | 小説サイト ベリーズカフェ”. 小説サイトBerry's Cafe -ベリーズカフェ-. 2024年2月3日閲覧。
- ^ [1] music calendar 2024年2月8日閲覧
- ^ “GOLDENCUPS.COM”. altamira.jp. 2024年2月3日閲覧。
- ^ “林恵文”. www.studio-g3.com. 2024年2月3日閲覧。
- ^ “ジョン山崎”. www.studio-g3.com. 2024年2月3日閲覧。
- ^ nakamura_bokushi (2011年11月4日). “急遽決定!”. ハワイでハレルヤ!. 2024年2月3日閲覧。
- ^ 熱狂GS図鑑 黒沢進著 徳間書店 1986年1月刊 19頁。
- ^ http://music-calendar.jp/2017090101/
- ^ http://www.allmusic.com/artist/lee-dorsey-mn0000814898
- ^ “ルーム”. www.studio-g3.com. 2024年2月3日閲覧。
- ^ “気ままに生きる(59/203) | 小説サイト ベリーズカフェ”. 小説サイトBerry's Cafe -ベリーズカフェ-. 2024年2月3日閲覧。
- ^ "ザ・ゴールデン・カップスのマモル・マヌーさんが死去、71歳 心筋梗塞のため". サンケイスポーツ. 産経デジタル. 8 September 2020. 2020年9月14日閲覧。
- ^ “ルイズルイス加部さんご逝去”. 2020年9月26日閲覧。
- 1 ザ・ゴールデン・カップスとは
- 2 ザ・ゴールデン・カップスの概要
- 3 グループ解散後
- 4 メンバーの変遷
- 5 特徴
- 6 脚注
ゴールデン・カップス
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1995年からは、新日本プロレスとの対抗戦に出場。高田延彦に次ぐUWFインターNo.2として長州力、蝶野正洋、佐々木健介といった大物と対戦した。長州、佐々木には完敗したが(特に「10・9」の長州戦に関しては、この試合が決まるや「210%勝てる」と発言したが、試合はバックドロップ→リキラリアット→サソリ固めの連携でわずか4分05秒で敗れ、実況の辻義就アナから「問題になりません!」などと言われるほどの負けっぷりであった)、伝説の「10・9」から数日後のUインター主催の蝶野戦ではメインイベントで変形足4の字固め(通称:グランドクロス200)で大金星といえる勝利を飾る。試合後、控室で「(頭を指差しながら)ここの差だね。“天才は天才を知る”と言いますが…」と発言した。ちなみに、この蝶野戦での試合後のインタビューでは当時武藤敬司が保持していたIWGPヘビー級王者のへの挑戦を匂わせるコメントを残していたが、これは実現しなかった。約2ヵ月後に行われた再戦(新日本主催)では蝶野にバタフライロックで敗れている。また、「UWFは垣原とかに任せて、プロレス界は僕が背負って立ちます」と宣言するなど、そのビッグマウスぶりが話題になる。その後はMr.200%を名乗り高山善廣、山本健一(現・山本喧一)と「ゴールデン・カップス」を結成する。ちなみに1995年10月9日の東京ドームにおける安生戦での長州の試合後のコメントが、かの「キレてないですよ」(正確には「キレちゃいないよ」)である。一方の安生は長州戦後、「今日はあんまり無理はしなかった」「次回できるもんなら無理してみますよ」「これで僕も心を入れ替えて、謙虚な男に生まれ変わりますよ!」「謙虚イズベスト!」などとふざけたコメントを残し、記者達を爆笑させた。 1996年1月4日、新日本の東京ドーム大会で実現した冬木弘道との試合では、冬木のわきがが臭いとの公言どおり、デオドラントスプレーを持参しリングインし、ボディーチェックの際に「腋にスプレーしろ」と強要するものの逆に口にガムテープをぐるぐる巻きにされた上、ラリアートを浴び敗戦。また、同年夏まで続いた冬木軍対ゴールデン・カップスの抗争は、ガムテープ以外にも、パンティー、生卵、生きたタコ等が凶器として使用されるハチャメチャなものだった。後に冬木とはタッグを結成。 1996年7月20日、声優の富沢美智恵とゴールデン・カップスの共同名義で、CDアルバム『OHTACO』をリリース。記者会見では「今年の紅白歌合戦に出る」と宣言するも、出場はできなかった。 1996年6月30日には力道山メモリアル(横浜アリーナ)にも参戦し藤原喜明と対戦(両者リングアウト)。また、同年8月17日には神宮球場で高田延彦と「Uインター頂上対決」を行うも、キックの連打の前にTKO負け。 1996年末にUWFインターナショナルが解散。翌1997年にキングダムを設立するもののまもなく活動停止に追い込まれた(1998年3月)。その後は全日本プロレスなどに参戦する傍ら、総合格闘技やK-1にも出場。K-1では佐竹雅昭と対戦するもTKO負け。全日本プロレスでは2001年に天龍源一郎とのタッグで第44代世界タッグ王座を獲得した他、チャンピオン・カーニバルや最強タッグリーグにも出場した。 2003年には長州力が設立したWJプロレスに参戦。
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