ゴットフリート・ライプニッツとは? わかりやすく解説

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ゴットフリート・ライプニッツ

(ゴットフリード・ウィルヘルム・ライプニッツ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/01 21:44 UTC 版)

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ
Gottfried Wilhelm Leibniz
生誕 (1646-07-01) 1646年7月1日
ドイツ国民の神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領
ライプツィヒ
死没 (1716-11-14) 1716年11月14日(70歳没)
ドイツ国民の神聖ローマ帝国
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領
ハノーファー
時代 17世紀の哲学
18世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 合理主義哲学
モナドロジー、唯心論
研究分野 形而上学認識論存在論
自然哲学
科学哲学
数学論理学
倫理学人間学
弁神論神学
東洋哲学中国哲学
主な概念 微分積分学
ライプニッツの微分の記法
モナド
予定調和
充足理由律
可能世界論
形而上学
最善世界説英語版
弁神論
二進法
ライプニッツの公式
ライプニッツの調和三角形
行列式の公式
図形推論英語版
フェルマーの小定理の証明
運動エネルギー
交代級数の収束判別法(AST
博士課程指導教員 エアハルト・ヴァイゲル(Erhard Weigel
博士課程指導学生 ヤーコブ・ベルヌーイ(Jacob Bernoulli
クリスティアン・ヴォルフ
署名
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツライブニッツ、Gottfried Wilhelm Leibniz ドイツ語: [ˈɡɔtfʁiːt ˈvɪlhɛlm fɔn ˈlaɪbnɪts][1][2][3]あるいは[ˈlaɪpnɪts][4][出典無効]1646年7月1日グレゴリオ暦)/6月21日ユリウス暦) - 1716年11月14日[6])は、ドイツ哲学者数学者

ライプツィヒ出身。ルネ・デカルトバールーフ・デ・スピノザなどとともに近世大陸合理主義を代表する哲学者である。主著は、『モナドロジー』、『形而上学叙説』、『人間知性新論』、『神義論』など。

概要

ライプニッツは哲学数学科学など幅広い分野で活躍した学者思想家として知られているが、政治家であり、外交官でもあった。17世紀の様々な学問[注釈 1]を統一し、体系化しようとした。その功績は法典改革、モナド論微積分法、微分記号積分記号の考案、普遍記号法の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたる。

生涯

1646年ライプツィヒに生まれ、6歳の時にライプツィヒ大学哲学教授を務めた父フリードリッヒ・ライプニッツを病気で失った[7]。1653年に入学したニコライ学院(ライプツィヒ)を1661年に卒業すると、ライプツィヒ大学に進んで数学哲学を学んだ。1663年6月に同学に哲学の学士論文を提出し、イエナ大学に移って4ヵ月にわたり数学や法学史学を学ぶと、同10月にライプツィヒ大学に戻る。同学には翌1664年に哲学の修士論文を提出し受理された。1666年に修士としてニュルンベルク近郊のアルトドルフ大学に移り、法学の博士論文を提出して同年11月に受理される[8]

1668年マインツ選帝侯に仕えると、このマインツ居住期に始めた文通はのちに著名になる[9]1672年、マインツ選帝侯からパリに赴き、フランスルイ14世エジプト遠征を勧めるよう命じられるが、フランス側からなんの関心も引き出せないまま、1673年に庇護者であるマインツ選帝侯が没すると、ライプニッツは職を失う。その後はパリに留まり求職活動をしながらクリスティアーン・ホイヘンスなど多くの学者と交流を深めていき、1675年に微積分法を発見。

1676年にはカレンベルク侯ヨハン・フリードリヒによって顧問官兼図書館長に任ぜられるとハノーファーに移住し、それ以後、その死までライプニッツはハノーファー宮廷に仕えることとなる。領内のハルツ鉱山の改良を命じられて1678年から1685年まで7年を費やしたものの、大失敗に終わっている。

鉱山の任務を解かれた同年、ハノーファー領主ヴェルフェン家の家史編纂を命じられ、生前に完成することはなかった。その一環として1687年から1690年の間、ライプニッツは南ドイツ、オーストリア、イタリアへと調査旅行に出かけている。1697年には『中国最新事情』を出版した。

ベルリンに招かれた1700年からベルリン科学アカデミーの設立に尽力し、初代会長に就任した[10]1710年にはアムステルダムの出版社から『弁神論』を匿名で発表した。1711年には神聖ローマ皇帝カール6世によって帝国宮中顧問官に任命された。1714年には『モナドロジー』の草稿を書きあげたが、公刊されるのは彼の死後の1720年のことであった。1716年、ハノーファーにて死去した。

業績

哲学

モナドロジー(単子論)」「予定調和説」を提唱した。その思想は、単なる哲学、形而上学の範囲にとどまらず、論理学、記号学心理学、数学、自然科学などの極めて広い領域に広がる。また同時に、それらを個々の学問として研究するだけでなく、「普遍学」として体系づけることを構想していた。学の傾向としては、通常、デカルトにはじまる大陸合理論の流れのなかに位置づけられるが、ジョン・ロック経験論にも深く学び、ロックのデカルト批判を受けて、精神物質二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論とはまったく異なる、世界を、世界全体を表象するモナドの集まりとみる存在論から、合理論、経験論の対立を回収しようとしたといえる。

モナドロジーの立場に立つライプニッツからすれば、認識は主体と客体の間に生じる作用ではなく、したがって直観でも経験でもない。自己の思想をロックの思想と比較しながら明確にする試みとして、大著「人間知性新論」を執筆したが、脱稿直後にロックが亡くなった(1704年)ため公刊しなかった。これが公刊されるのはライプニッツの死後49年がたった1765年のことであった。ライプニッツの認識論には、無意識思想の先取りもみられる。また、フッサールハイデガーなどを初めとする現象学の研究者から注目を集め様々に言及されている。

さらにライプニッツは、20世紀後半に至って、「必然的真理とは全ての可能世界において真となるような真理のことである」といった可能世界意味論に基づく様相理解の先駆者と見なされるようになった。このような考え方は、ルドルフ・カルナップの『意味と必然性』を嚆矢とし、その後アーヴィン・プランティンガやデイヴィッド・ルイスなどの影響もあり、ライプニッツの様相概念についての通説として定着した感があるほどである。

その他、最近では、最晩年(1714年)に著した『中国自然神学論』が注目を集め、比較思想の観点からも(洋の東西を問わず)研究が進められつつある。

同時代の哲学者との関係

ライプニッツは、同時代の著名な知識人とはほぼすべて交わったと考えてもよいくらい活動的であった。

  • 特筆されるのは、1676年バールーフ・デ・スピノザを訪問したことである。そこでライプニッツは『エチカ』の草稿を提示された。だが、政治的問題もあり、またそれ以上に実体観念や世界観(特に「必然性」や「偶然性」といった様相をめぐる議論)の違いからスピノザ哲学を評価しなかったと言われる。
  • デカルトやスピノザの他に、マルブランシュの影響を強く受けている。
  • ライプニッツが生涯に書簡を交し合った相手は1,000人を優に超えると言われている。王侯貴族から全くの平民にまで及んだ書簡相手の内でも特に重要と目されている人物としては、『形而上学叙説』をめぐって書簡を交わしたアントワーヌ・アルノー[注釈 2]、デカルト主義者の自然学者にしてピエール・ベールの友人としても知られるブルヒャー・デ・フォルダー、晩年の10年間にわたり130通に及ぶ書簡をやり取りしたイエズス会神父のバルトロマイウス・デ・ボス、最晩年の2年間、アイザック・ニュートンの自然学及び哲学との全面対決の場ともなったサミュエル・クラーク(ニュートンの弟子であり友人でもあった)などが知られている。

著作

『力学要綱』と『弁神論』を除くと、その著作の大半は未完で、かつ死後相当の時間を経て刊行されたため、ライプニッツの学の全貌は17~18世紀に完全には理解されないまま、楽天主義的であるとの誤解を生んだ[注釈 3]。全集は2024年現在も完結していない。

モナド

複合体をつくる単純な実体で、ここでいう単純とは部分がないということである。モナドは自然における真のアトム(=不可分なるもの)であり、これが宇宙における真の存在者である。したがってモナドは単純実体ではあるが、同時にモナドは表象 perception と欲求 appetite とを有するが故に、モナドは自発的に世界全体を自己の内部に映し出し世界全体を認識するとともに、その内部に多様性と変化とを認めることが可能となる。そしてこの内的差異によって、あるモナドは他の全てのモナドから区別される。モナドには「窓はない」ので他のモナドから影響を蒙ることはないが、神が創造において設けておいた「予定調和」によって他のモナドと調和的な仕方で自己の表象を展開する、すなわち意志に応じて身体を動かすといった働きができるのである。要するに、モナドとは魂に類比的に捉えられる存在者なのである[11]

法学

ライプニッツはアルトドルフ大学より法学博士号(Doctor juris)を授与されている。法学への関心は実務から自然法まで幅広いものであった。法学の後進性や乱雑さに不満を抱き、数学的な法学の改革を志向した。また、主権を研究し、ドイツやヨーロッパの連邦化を構想していた。

数学

ライプニッツが1697年に書いた書簡。2進法の記述が見える。

微積分法アイザック・ニュートンとは独立に発見・発明し、それに対する優れた記号法すなわちライプニッツの記法を与えた。現在使われている微分積分の記号はこれによるところが多い。

しかし、それと同等か、あるいはそれ以上に重要な業績は今日の論理学における形式言語に当たるものを初めて考案したことである。ライプニッツによれば、それを用いるとどんな推論も代数計算のように単純で機械的な作業に置き換えることができ、注意深く用いるなら誤った推論を原理的に起こり得なくできるという。ライプニッツは数名の優秀な人材が取り組めば、実現に5年もかからないと信じていたようだが、現実には実現に300年以上を要した。彼は記号に「取り憑かれた」人物で、論理学以外にも例えば幾何学について、記号を用いて機械的に証明をする構想を得ていた。これも実現は後世を待つこととなる。

上記の事柄に含まれるが、2進法の研究もライプニッツの功績である。イエズス会宣教師ジョアシャン・ブーヴェは、中国の古典『易経』に関心をもっていたライプニッツに六十四卦を配列した「先天図」を贈り(1703年)、ライプニッツはすでに編み出した2進法の計算術を、その図から見いだしている。

また独自の機械式計算機を考案しており、生前は独自に改良を重ねていた[12]

ドイツ出身の悲哀

ライプニッツは三十年戦争の後遺症がまだ残るドイツという、後進国出身の悲哀を味わわなければならなかった。ライプツィヒ大学の哲学教授であった父には、幼いころから読書を教わり、14歳で父が務めた大学に進んで2年後に卒業するが、当時のドイツの大学はイギリスフランスに比べて立ち遅れており、ライプニッツの理論を正当に理解・評価できる人は学内にあまりいなかった。

ライプニッツを尊敬したのは、外交顧問、図書館長として仕えたハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストゾフィー、その娘ゾフィー・シャルロッテプロイセンフリードリヒ1世妃)、選帝侯夫妻の孫ゲオルク・アウグスト[注釈 4]の妃のキャロライン[注釈 5]らであった。ライプニッツは、1700年にゾフィー王妃の招きでベルリンに赴き科学アカデミーの創設に参加して、初代総裁に就任している。しかし5年後に同王妃が肺炎で死去すると、ベルリンはライプニッツにとって居心地のよい場所ではなくなってしまった。

ハノーファーでは選帝侯妃ゾフィーも死去し、その1714年に息子の選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒはイギリス王ジョージ1世となってイギリス国王を兼任する。キャロラインは選帝侯皇太子妃としてイギリスに移り住んだ。ライプニッツはジョージ1世に煙たがれており、イギリスに伴うことは許されずハノーファーに残されてしまう。政治的な支援者を失ったライプニッツに対して周囲は冷たく、晩年は侯家の家史編纂という仕事に熱も入らないまま、自分を理解してくれる外国の学者や友人とひろく文通をかわすだけの日々を過ごした。その文通相手は国内外あわせて千人を超えた[注釈 6]

「これほど能力が高くて、これほど後世に影響を与えなかった人は珍しい」という評が残っている[要出典]

著作

参考文献

注釈

  1. ^ ライプニッツが統合を試みた学問領域とは、法学政治学歴史学神学哲学数学経済学自然哲学物理学)、論理学等を含む。
  2. ^ アントワーヌ・アルノーに対しては、20代の頃(1671年)にもラテン語で書簡を送っている(『形而上学序説』をめぐる書簡はフランス語でやり取りされている)。またこの両者の関係は、ライプニッツの改宗問題(ライプニッツはルター派であった)もあって、なかなか一筋縄ではいかぬところがあった。
  3. ^ ヴォルテールの『カンディード』は、ライプニッツの哲学が(今日で言われるような)「オプティミスティック」(=楽天主義的)なものである、という通説を確立する上で重要な役割を果たした、と言われている。だが、『カンディード』刊行時にはライプニッツのまとまった著作集はまだ刊行されていなかった。(『カンディード』刊行は1759年。一方、初めてまとまったライプニッツ著作集が刊行されたのは1768年で、ルイ・デュタンの編集によるものである。)
  4. ^ 孫は後のイギリス王ジョージ2世。
  5. ^ 孫の伴侶キャロラインのドイツ語名はカロリーネ・フォン・アンスバッハ。
  6. ^ 文通相手だったロシア皇帝ピョートル1世とは、アジアとアメリカは陸地が続いているのか、それとも海峡によって分離しているか論じ、この問題を解決できるのはロシア皇帝しかいない、と建言している[13]

脚注

  1. ^ Max Mangold, ed (2005) (ドイツ語). Duden-Aussprachewörterbuch (Duden Pronunciation Dictionary) (7th ed.). Mannheim: Bibliographisches Institut GmbH. ISBN 978-3-411-04066-7 
  2. ^ Wells, John C. (2008) (英語). Longman Pronunciation Dictionary (3rd ed.). Longman. ISBN 9781405881180 
  3. ^ Pieni Tietosanakirja 1033-1034; et al.『郁文堂独和辞典」、三修社「アクセス独和辞典」、「木村相良独和辞典」』http://runeberg.org/pieni/2/0575.html 
  4. ^ Eva-Maria Krech, ed (2010) (ドイツ語). Deutsches Aussprachewörterbuch (German Pronunciation Dictionary) (1st ed.). Berlin: Walter de Gruyter GmbH & Co. KG. ISBN 978-3-11-018203-3 
  5. ^ The Oxford-Harrap Standard German-English Dictionaryなど
  6. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年2月12日閲覧。
  7. ^ マイケル・J・ブラッドリー 著、松浦俊輔 訳『数学を育てた天才たち : 確率、解析への展開』青土社〈数学を切りひらいた人びと 2〉、2009年4月15日、130頁。 
  8. ^ ブラッドリー & 松浦 2009, p. 132
  9. ^ 酒井潔『ライプニッツ』清水書院〈人と思想〉、2008年9月。 ISBN 4-42317-139-2http://www.shimizushoin.co.jp/thinker_books/view/180 
  10. ^ 木田元 編『哲学者群像101』(初版) 新書館、2003年5月5日。 
  11. ^ 「モナドロジー」『後期哲学』工作舎〈イプニッツ著作集第9巻〉、[要ページ番号]頁。 
  12. ^ 酒井潔『ライプニッツ』清水書院〈人と思想〉、2008年9月。 ISBN 4-42317-139-2http://www.shimizushoin.co.jp/thinker_books/view/180 
  13. ^ L.ベルグ『カムチャツカ発見とベーリング探検』龍吟社、1942年、49頁。 

関連項目

外部リンク





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