ゴットフリート死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 14:45 UTC 版)
「マリア・マルガレータ・キルヒ」の記事における「ゴットフリート死後」の解説
1710年7月、夫のゴットフリートが死去した。収入を失ったマリアは、自分と子供たちの生計を立てるため、同年8月に、自分と息子を天文学助手として暦の製作に携わらせてほしいと願い出た。このときにマリアは、自分は長年夫とともに暦の製作に従事しており、十分な能力及び資格があることを主張した。 当時のアカデミー理事会は、会長のライプニッツこそマリアに好意的であったが、女性が天文学にかかわることに慎重的な意見が多かった。アカデミー書記のダニエル・エルンスト・ヤブロンスキー(英語版)は、この件に関してライプニッツに手紙を送った。そこには、「アカデミーが女性の手を借りて暦を製作していることについてはゴットフリート存命中から笑われていたのだから、マリアをこの先も同じ職に就かせるようなことがあれば世間はあきれてしまうだろう」といった内容が記されている。 結局、マリアの申し出は受け入れられることはなかった。この決定は1712年初めにマリアに伝えられた。ただしライプニッツは、同年3月18日のアカデミー会合で、未亡人であるマリアに6か月間住居と給与を与えるよう要請した。このうち、住居については支給されたが、給与は与えられず、代わりにマリアは、ゴットフリートが残した観測記録簿の代金として40ターラーを受け取った。また、後にアカデミーからメダルを授与された。 1712年10月、マリアはアカデミーを離れ娘の居住地へと引っ越し、ベルンハルト・フリードリヒ・フォン・クロージク男爵が持つ天文台の責任者となった。マリアはこの天文台で2人の学生を助手につけることができ、共同で観測を続けた。また、引き続き暦も製作した。ノンフィクション作家のマルヨ・T・ヌルミネンは、18世紀に私的天文台の責任者となったのは、このときのマリアが唯一の例だと推定している。この時代がマリアにとっても最良の時期とする意見もある。しかし、2年後の1714年にクロージク男爵が死亡したため、マリアはこの天文台を離れなければならなくなった。 その後マリアはいったんダンツィヒで数学教授の助手となってから、ヨハネス・ヘヴェリウスの遺族に雇われた。ヨハネス・ヘヴェリウスは、マリアの夫であったゴットフリートの師にあたる人物である。マリアはヘヴェリウス家の天文台で、息子のクリストフリートや娘のクリスチーネとともに仕事した。 一方そのころ科学アカデミーでは、ヨハン・ハインリッヒ・ホフマンがゴットフリート・キルヒの後任の天文学者となっていたが、ホフマンは1716年に死去した。アカデミーでは新たな天文学者を探した結果、1716年、マリアの息子クリストフリートが候補となった。しかしクリストフリートは、ライプツィヒ大学に通ってはいたものの、天文学の理論についてはまだ不十分とされていた。にもかかわらずクリストフリートが候補に挙がったのは、専門的な知識を有する母親を助手につかせることができるという狙いがあった。 同じ時期にマリアには、ロシアのピョートル大帝から、ロシアの天文台で働くよう依頼がきていた。この背景には、科学アカデミーを辞めてピョートル大帝の私的助言者となっていたライプニッツからのはたらきかけがあったとされている。マリアは2つの誘いのうち、科学アカデミーを選び、息子の助手となった。この選択をした理由について、マリアは息子のキャリアを優先したためではないかと推測されている。
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