コレクション年譜とは? わかりやすく解説

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コレクション年譜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 10:00 UTC 版)

秦万紀子」の記事における「コレクション年譜」の解説

1949年からオリジナル作品発表開始亡くなる 1965年まで開催された。 1951年からのコレクションは「秦 万紀子創作発表会」として東京大阪31開催。そのファッションショーは、斬新で常に話題呼んだ作品は、主に東京三越本店特選売場東京和光本店にて展示販売された。*ヨセフ・モルナール[Josef Molnar, 1929-2018 オーストリアハープ奏者声楽家日本ハープ協会会長]のハープ演奏による*2台のピアノ連弾による *秦万紀子の色決め塗られた6台の車トヨペットとの Collection など。主な開催会場/東京国際会議場ホテルオークラ帝国ホテルよみうりホールイイノホール日活ホテルホテル高輪など 大阪大阪フェスティバルホールグランドホテル新阪急ホテル毎日ホールなど 1961年2月16日秦 万紀子コレクション開催パリの SALONS DE LETOILE 於)翌2月17日、「ル・フィガロ」紙 朝刊 19 頁に【Poete du Tricot】.「編物詩人」と取り上げられた。 『Avec Mme Hata 【Poete du Tricot】「編物詩人マダム・ハタ」昨2月 16日編物詩人」、マダム・マキコ ハタ (秦 万紀子女史)のコレクションが、ル・コミテ・フランセ・ド・レレガンス [Le comite Francais de L'elegance](フランス エレガンス協会)の手によって行われました。マダム・ハタは、偉大な才能恵まれた 1 人デザイナーであり、その数々作品は、賞賛値するものです。このコレクションは、フランス駐在日本大使、古垣鉄郎夫妻出席のもとに、日本松田和松本弘子パリっ子マヌカン(モデル)達によって披露されたものです。マダム・ハタは、このコレクションによって、パリのオート・クーチュル(高級服飾モードコレクション)に参加することを、確証されました本当に偉大な大きな力を持ってます。開催場所/パリ凱旋門のそばにある ナポレオン・ホテル地下 サロン・デ・レトアール(サロン凱旋門) 主催/ Le comite Francais de L'elegance (フランス エレガンス協会)協賛 / パリ オートクチュール組合 スタッフ / 帽子:ジャン・バルテ(JEAN BARTHET) ヘアーカリタ姉妹(CARITA) アクセサリー:ローラ・プルザック(LOLA PRUSAC) 手袋:ロゼ・ファレ(ROSE FERRE) 靴: ロジェ・ヴィヴィエ(ROGER VIVIER)出席者/フランス駐在日本大使・古垣鉄郎夫妻、オート・クーチュル・デザイナー多数 ディオール関係者、アニィ・ブラット オフ・シェ ル社長 女優岸恵子 フランソワーズ・アルヌール テレビ 新聞などジャーナリスト 多数 色彩学者多数など 総勢 500 人を超えるパリ人々賞賛の声 /「私たち誇り思っているデザイナー、デオール パルマンとマダム・ハタは、対等に並ぶべき偉大な創造者だ」 「最高の芸術家だ」「色の美し使い方は、嫉妬感じるくらいだ」「繊細な女らしい作品から大胆な動きを持つ作品 に至るまで、その幅と独創力感嘆した」「パリは、彼女のセンス学び、是非これを知らなければならない」 「フ ランス以外に、これほどセンスを持つ人が、居ようとは、考えてもいなかった」「完全に彼女の頭からほとばしり 出た作品で、誰の模倣でもないカラリストのカルラン「日本人色彩感覚素晴らしいことが、わかったので、来年発足するイン ターカラーメン バーに、日本加入お願いするつもりだ」アニィ・ブラット(ANNY BLATT)は、「毛糸は、アニィ・ブラット。デザインは、マダム・ハタで、今後パリ仕事をしたい。」 紀子は、このコレクション準備のため、秘書として娘・砂丘子を伴い4ヶ月前にフランス渡りパリ滞在し協賛するオートクチュールスタッフ帽子アクセサリー、靴、ヘアー等のデザイナー)と、様々に打ち合わせ重ねた。このコレクションにはエレガンス協会役員であったスイス生まれ日本人鮎沢露子 (Auerstadt 公爵夫人・第 5 代公爵 Leopold結婚ILO 東京支局長、国際基督教大学教授鮎沢巌長女)と実弟鮎沢レマンとの2人助けがありコレクション成功至った。この鮎沢姉弟との出会いは、のちに、Auerstadt 公爵家、鮎沢家と秦家との交流発展する。娘の砂丘子は、そのオートクチュールスタッフとの 打ち合わせ紀子と共に立ち会い当日コレクションでは、終了直ぐのレセプションの為、和服姿で、モデ ル着せ付けするなど活躍した紀子コレクション後、フランス テレビ局とのインタビュー、マリーフラ ンスとのインタビューカラリストとの会食など、多忙極めた。このコレクションフランスイタリア国際流行色準備委員招待され 翌年(1962年) 国際流行色協会 が、パリ発足する契機をつくる。日本流行色協会 JAFCA は、発足メンバーとして最初から参加する。現在 参加国は、17カ国 年 2回 インターカラー発表されている。 1964年コレクション 亡くなる年の前年-1964年コレクション-の挨拶文には、「昭和 39年 9月3日コレクション前に」として、下記掲載がある。 これでも若い時はとてもおしゃれでした。美しい色に憧れきれいな形に魅せられて育ってきました。きっと、母の影響のでしょうその頃の私を知っている人は、「“あみもの”の道に入るなんて、あなたら しくもないわ」って言いました自分でもはじめはそう思いましたでも、今では この道にいて、私らしく 生きてます。あみもの”は好きな色を自由に使いこなせるし、機能合わせた形づくりも思うよう出せ るので魅力です。それを満足させたくて、またこの魅力とりつかれていつの間にか、この渦中でくらし、苦労することになってしまいました初めオリヂナル作品発表したのは、15年前のことで、それからずっと、色と形追いつづけてます。あみもの”が技 わざ を土台とする芸術であることは当然のことですが、それだけに技 わざ だけに捉われ作品作りたくありません。技を磨くための色であり、形だと思います。それが“あみもの”を最高にさせる美しさ だと思ってます。形は崩れ易いだけにむづかしく、色や、質は沢山あるだけに困難です。けれど立派な技 わざ によってそれがひとまとめにされた時は、ほんとうに素晴らし作品になっている筈です。実用的で、おしゃれで、シックな美しい“あみもの”である筈です。このような作品が創りたくて、これまでずっと闘ってきました皆様育てていただき乍ら一年の中のいつ か。どこかで、色と形取り組んだ私のコレクション発表見ていただいてきたと思います。それも、もう 30 回を超えることになったようです主調はいつも私だけが持つものですし、私も良い思って必至思い作ってます。こんな時が、私の一番 倖せな時なのです。古い因習や殻の中から抜け出した新しい“あみもの”の本流進路はこれと信じて、それを私の目標にしています。こんどは特に、雑誌出版社方々からも、温かいお力添え言葉頂きました恰度15年前と同じよううれしくて、胸が一ぱいです。ほんとうにありがと存じましたこれからも、もっと頑張って、更に飛躍しつづけていこうと思いますお蔭様で、私の心の身近にいる人々も今では全国に沢山いられます。娘・砂丘子もそのひとり。別に私のあとつぎにするつもりではありません。自分勝手にしたくてやっているようです。どうぞ私ともども、みんなをよろしく、お願いいたします後援して頂きました東洋紡績株式会社株式会社商店のほか、御協賛頂きました多く皆様方 にも、深く深く感謝申し上げます。このコレクションには、娘の砂丘子のデザイン作品発表された。

※この「コレクション年譜」の解説は、「秦万紀子」の解説の一部です。
「コレクション年譜」を含む「秦万紀子」の記事については、「秦万紀子」の概要を参照ください。

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