クロマティ高校沿革
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「魁!!クロマティ高校」の記事における「クロマティ高校沿革」の解説
単行本第1巻にはクロマティ高校の沿革が書かれている。そして、入学案内でさらに加筆された。 1923年:東京府立第四十九中学校創立。東京府師範学校教頭、水原茂之進が初代校長に就任。同年、関東大震災で校舎早くも全壊。 1930年:初代総番長に河上哲春就任。「喧嘩相手が止まって見えた」との名言残す。 1943年:都制施行に伴い、校名を東京都立第四十九中学校と改称。 1944年:第一回最強決定武闘会開催。空襲により勝者決まらず。 1945年:終戦。 1946年:有志がGHQに喧嘩を売りにいくもガムをもらってなだめられて帰宅。学校側には厳重注意。 1948年:新制高等学校制度実施により東京都立第四十九高等学校と改称。 1950年:東京都教育委員会規則第一号により、校名を東京都立クロマティ高校と改称。 1951年:クロマティ高校PTA誕生。 1952年:新校舎落成式。 1956年:体育館、及びプール落成式。 1958年:初の文化祭を開催。集団食中毒事件発生。以後5年間文化祭自粛。 1960年:「第一回東京都番長連合会議」本校主催で行われる。番長・永島重夫「クロマティは永久に不滅」の言葉残す。 1961年:永島重夫、その功績をたたえ「永久名誉番長」となる。 1963年:最強決定武闘会で、優勝者が手続きミスのため優勝取り消しに。 名前の書き忘れで書類に不備。 1966年:生徒会で学校への凶器持ち込みが正式に禁止される。 1968年:卒業式に警察介入。「5 VS 5異種格闘技戦」に発展。 1969年:京都への修学旅行で、教師も含めて学校丸ごと迷子になるという前代未聞の事件勃発。 1970年:「番長連合会議」を「番長サミット」に改称して開催。 1971年:学生運動に一枚噛もうとするも、趣旨が理解できず脱落。 1974年:PTAからの圧力に反発した学生が決起。PTA対クロ高生のボクシング対決へ。代表者が両者KOで決着つかず。 以後ボクシングによる更生が図られる。 1975年:クロマティ高校、全国高等学校野球選手権大会で初の予選二回戦進出。 1978年:第一回合唱コンクール開催。「夢は夜ひらく」を歌った2年3組優勝。 1979年:入学試験の日にちを学校まるごと間違える。結果この年は試験は行われず希望者は全員入学。後に「空白の一日」と呼ばれる。 1980年:伝説の「謎の校舎大爆発事件」起こる。以後二週間の学校閉鎖。 1981年:校舎全面改築。 1982年:最強決定武闘会の優勝旗盗まれる。 1985年:クロ高初の大学進学者が出る。山車や御輿で祝う。 1987年:またしても学校丸ごと入学式の日にち間違える。新入生大混乱。 1995年:交換留学生制度開始。海外の学校との遺恨勃発。 1997年:第一回クロ高フィルムフェスティバル(CFF)開催。優秀作品に「高三 ゴッドファーザー」と「そうはいっても18歳」。 1998年:運動会が行われたが、近隣の住民がヤクザの抗争と勘違いし警察に通報。騎馬戦でパトカー暴走。怪我人多数。 2001年:学校に突如隕石が飛来。校舎全壊。 その後、校舎に再び隕石落下(フレディが連れ去られる)、修学旅行機がハイジャックされる(竹之内連れ去られる)、野球部の青木ヶ原での遭難、火事で校舎全焼、三度隕石落下などの出来事が起きている。 なお実際には、「東京府立第○○中学校」と名のつく学校は東京府立第二十四中(のちに九中に統合され、北園高校となる)までしかない。四十九は元野球選手ウォーレン・クロマティの巨人(読売ジャイアンツ)時代の背番号にかけたものである。 1922年には府立八中(のちの小山台高校)が設立されている(旧制中等学校・新制高校のナンバースクール一覧より)。 原作では共学と紹介されているが実際は男子生徒しかおらず、小説版では男子校とされている。だが小説版終盤では海外の調査によってそもそも学校ではないとまで言われてしまう。それでも神山達が小説版の中で行った文化祭(2年秋)を境に優秀な生徒が少しずつ集まり、20年後には都内有数の進学校となったという。
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