カールハウスホーファーとは? わかりやすく解説

カール・ハウスホーファー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/22 06:50 UTC 版)

カール・ハウスホーファー
Karl Haushofer
1920年頃
生誕 1869年8月27日
バイエルン王国 ミュンヘン
死没 (1946-03-13) 1946年3月13日(76歳没)
連合国軍占領下のドイツ
バイエルン州 ペール
所属組織 ドイツ帝国陸軍バイエルン陸軍ドイツ語版
最終階級 陸軍少将
出身校 ミュンヘン大学
バイエルン陸軍大学校ドイツ語版
子女 アルブレヒト・ハウスホーファードイツ語版
ハインツ・ハウスホーファードイツ語版
除隊後 ミュンヘン大学教授
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カール・エルンスト・ハウスホーファー(Karl Ernst Haushofer、1869年8月27日 - 1946年3月13日)は、ドイツ陸軍軍人地理学者地政学者ミュンヘン大学教授。最終階級は陸軍少将。旧バイエルン王国出身。ランドパワー(陸上権力)を重視するドイツ地政学の祖。日本との関係が深い人物である。

経歴

軍歴

1869年8月27日、バイエルン王国の首都ミュンヘンにて出生。1887年人文主義ギムナジウムドイツ語版を卒業した後、1年間の志願兵としてドイツ帝国バイエルン陸軍第一野砲連隊「Prinzregent Luitpold」(「摂政王子ルイトポルト」)に入営する。

1896年、父の代でユダヤ教からカトリックに改宗したタバコ製造業者の娘であるマルタ・マイアー=ドースドイツ語版と結婚する。二人の息子、アルブレヒトドイツ語版ハインツドイツ語版をもうけた。

1888年、バイエルン王国陸軍第一野砲兵連隊の士官候補生となる。1898年に高級士官の登竜門であるバイエルン陸軍大学校ドイツ語版を修了し、1899年から2年間、参謀本部へ異動。1901年陸軍大尉として原隊に復帰し、3年間砲兵中隊長を務める。

1904年より参謀本部中央事務局に異動。さらに陸軍大学校への辞令を受け戦史(軍事史)教官となるが、1907年の学期半ばでプファルツ地方ランダウのバイエルン第3師団の参謀に異動させられる。これを懲罰的措置とみなしたハウスホーファーは、陸軍軍人としての栄達を諦め、地理的研究のキャリアを志向し始める[1]

1908年(明治41年)から1910年(明治43年)まで、駐日ドイツ大使館武官として勤務。帰国後まもなく重い肺病を患い、3年間の休職を命じられた[2]。その間、1911年から1913年に博士論文「大日本 大日本の軍事力、世界的地位、そして将来についての考察」(Dai Nihon: Betrachtungen über Gross-Japans Wehrkraft, Weltstellung und Zukunft)をまとめ、哲学博士Doktor der Philosophie)の学位を取得。

40代に入っても陸軍少佐にとどまっていたが、第一次世界大戦西部戦線に従軍して急速に昇進し、砲兵連隊長などを務めて名誉陸軍少将の階級を受ける[3]

ドイツ地政学の祖・ヒトラーとの出会い

1920年頃のハウスホーファーとヘス。

第一次世界大戦後はミュンヘン大学にて大学教授資格(ハビリタチオン)を取得し、1921年に同大学の地理学教授となる[3]。ハウスホーファーは、自然地理的環境と政治との相互関連を強調し、スウェーデンルドルフ・チェーレンが提唱した地政学を継承して大成させた[4]

1919年にハウスホーファーは教え子としてルドルフ・ヘスと知り合い、1921年にはアドルフ・ヒトラーと出会った[3]。1923年のミュンヘン一揆の際には逃亡するヘスを一時匿い、ランツベルク刑務所に収監されていたヒトラーと面会した。ヒトラーはハウスホーファーの生存圏(レーベンスラウム)の理論に興味を覚え、「生存圏を有しない民族であるドイツ人は、生存するために軍事的な拡張政策を進めねばならない」として、ナチス党の政策に取り入れた。しかしハウスホーファーは「(ヒトラーが)それら(地政学)の概念を理解していないし、理解するための正しい展望も持ち合わせていないという印象を受けたし、そう確信した」と見てとり、フリードリヒ・ラッツェルなどの地政学基礎の講義をしようとしたが、ヒトラーは拒絶した。ハウスホーファーはこれをヒトラーが「正規の教育を受けた者に対して、半独学者特有の不信感を抱いている」ことによるものであるとみていた[4]

ナチス政権下

日本側では先に、元駐日オランダ領事で和蘭太平洋協会会長のE.D. フォン・ワルリーや、太平洋問題調査会が、南洋開発について調査研究を進めていた[5]

ナチス党が政権に就いた1933年にはミュンヘン大学の正教授に就任した。1934年から1937年までドイツ学士院ドイツ語版総裁を務め、この間、当時駐独大使館付武官で後に駐独大使となる大島浩とも接触して日独友好に関与した。

妻がユダヤ系であったこともあって、1938年頃にはハウスホーファー本人はナチズムに幻滅するようになっていたといわれ[3]1939年には親衛隊ドイツ民族対策本部(ドイツ国籍を持たない在外ドイツ人との連携機関)に籍を置いた。

ベルリンにあるアルブレヒトの記念碑

1941年5月10日に教え子のヘスが、イギリスとの単独和平を目論みメッサーシュミット Bf110で渡英した際には、事前にヘスと会っていたことや長男で外交官だったアルブレヒトドイツ語版がイギリスにおける接触先としてハミルトン公ダグラス・ダグラス=ハミルトンを紹介していたことが問題視された。そして同年独ソ戦が開始されたことから、地政学上の見地からソ連との関係強化を主張したハウスホーファーとヒトラーの関係は疎遠になる。

さらに息子アルブレヒトが1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に関わっていたことでゲシュタポの監視下に入った。アルブレヒトは逃走していたが、同年12月に逮捕され、ベルリン陥落直前の1945年4月末に処刑された。ハウスホーファーは息子の死を大いに嘆いた[3]

死去

ハウスホーファーの墓

第二次世界大戦期を通じて連合国の間では、ハウスホーファーがヒトラーの侵略政策に大きな影響を与えたという見方が広まった。ドナルド・ノートン(Donald Hawley Norton)はこうした見方をされたハウスホーファーを「ヒトラーの悪魔的天才(Hitler's evil genius)」と評している。ドイツ敗戦後のニュルンベルク裁判でも重要戦争犯罪人としてハウスホーファーを裁く動きがあったが、高齢の上に病身であったこと、ヒトラーの政策への関与の立証が困難であったことなどから見送られた[6]。ハウスホーファーは、自らの理論がナチス・ドイツに用いられたことについて「自分は学者であるよりもドイツ人であった」と述懐している[7]

1946年に妻とヒ素を飲み、連合軍占領下の故郷バイエルン州で服毒自殺した。

思想と影響

ハウスホーファーはランドパワーの大国であるソビエト連邦とドイツの同盟(独ソ同盟)の主唱者の一人である。グレゴール・シュトラッサーナチス左派エルンスト・ニーキッシュのようなナショナル・ボリシェヴィズムの哲学、一部のドイツ共産党幹部までに大きな影響を与えた。弟子のルドルフ・ヘスを介してアドルフ・ヒトラーに影響を与えたが、(妻がユダヤ人であることからも)熱心なナチスでは全くなく、後のソ連侵攻に対しては明確に失望している。近年ではウクライナ戦争の背景となったアレクサンドル・ドゥーギンのネオユーラシア主義にも影響を与えているとされる。

駐日武官としての経験は、ハウスフォーファーが地政学者となる契機となった。ハウスフォーファーはおおむね親日的な人物であった。日本については、主著『太平洋地政学』(Geopolitik des pazifischen Ozeans)のほか、主に日本の軍事力やアジアでの覇権、経済的発展などに関する多数の著作がある。ほか、明治天皇に関する著作(Mutsuhito, Kaiser von Japan 1933年など)もある。ハウスフォーファーはアジア太平洋地域における日本をヨーロッパにおけるドイツに準え、更に独ソ同盟に日本を加えることを提案していた。従って(満州以北への)北進日中戦争に反対する南進論者として日本軍への工作活動を行ったが、これは失敗に終わった。

日本滞在中に日本語はもちろん、朝鮮語中国語を修め、広くアジアを旅しヒンドゥー教仏教の経典、またアーリア民族が多く住む北インドイランにも詳しく、アジア神秘主義の権威でもあった。ヒトラー及びナチス党はハウスホーファーの理論に少なからぬ影響を受けた。

ハウスホーファーは、以下を主張した。

  1. フリードリヒ・ラッツェル(Ratzel)の「レーベンスラウム」(生存圏)と国家拡大理論
  2. ルドルフ・チェーレン(Kjellén)の「アウタルキー」(経済自足論)
  3. ハルフォード・マッキンダー(Mackinder)のハートランドによる「ランドパワーとソフトパワーの対立」
  4. パン・リージョン理論(統合地域)
  5. 独ソ同盟(ソ連とのランドパワーによる世界支配)

ハウスホーファーは世界をいくつかのブロックにわけて、アメリカ、ソ連、日本、ドイツなどがそれぞれの地域で主要な地位を占め、秩序を維持すべきとした。勢力均衡(バランス・オブ・パワー)理論に基づいて世界視野での勢力均衡を確立することを提唱しているものといえるが、それらをとりまとめる国がドイツであるとした。

家族

祖父は画家で、プラハ美術アカデミードイツ語版教授も務めたマックス・ハウスホーファードイツ語版。父は経済学者のマックス・ハウスホーファー・ジュニアドイツ語版

妻はマルタドイツ語版、旧姓マイアー=ドース(Mayer-Doss)は、父の代でユダヤ教からカトリックに改宗したタバコ製造業者の娘。マルタとの間に二子を儲ける。長男アルブレヒトドイツ語版は同じく地理学者で、混血ユダヤ人としては異例ながら父の教え子であるルドルフ・ヘスの推挙により大学教授となった。アルブレヒトは外交官も務めたが、後に混血ユダヤ人であることもあって反ナチス活動家となり、ヒトラー暗殺計画に参加したため処刑された。次男ハインツドイツ語版は農学者であった。

妻マルタの従兄弟に法学者のマックス・エルンスト・マイヤー(M・E・マイヤー)がいる。

栄典

著作

日本語題は仮の直訳である。

  • 『日本及び亜日本地域の地理的発展に於けるドイツの役割と戦争及び軍政によるその促進』(Der deutsche Anteil an der geographischen Erschließung Japans und des subjapanischen Erdraumes und deren Förderung durch Krieg und Wehrpolitik、1913年)
  • 『大日本 日本の軍事力、世界に於ける地位、そして将来の考察』(Dai Nihon: Betrachtungen über Gross-Japans Wehrkraft, Weltstellung und Zukunft、1913年)
  • 『大日本帝国の地理的発展』(Das Japanische Reich in seiner geographischen Entwicklung、1921年)
  • 『日本及び日本人』(Japan und die Japaner、1923年)
  • 『自決に向かう東南アジア』(Südostasiens Wiederaufstieg zur Selbstbestimmung、1923年)
  • 『太平洋地政学 地理歴史相互関係の研究』(Geopolitik des Pazifischen Ozeans. Studie über die Wechselbeziehungen zwischen Geographie und Geschichte、1924年)
  • 『地理的意義と政治的意義に於ける国境』(Grenzen in ihrer geographischen und politischen Bedeutung、1927年)
  • 『地政学の諸構成要素』(Bausteine zur Geopolitik、1928年)
  • 『明治時代より今日に至る日本のライヒ再生』(Japans Reichserneuerung von der Meiji-Ära bis heute、1930年)
  • 『パン=イデーンの地政学』(Geopolitik der Pan-ideen、1931年)
  • 『大国の彼岸』(Jenseits der Großmächte、カール・ハウスホーファー編、1932年)
  • 『世界に於ける国家社会主義の観念』(Der nationalsozialistische Gedanke in der Welt、1933年)
  • 『世界大国及び帝国としての日本の発展』(Japans Werdegang als Weltmacht und Empire、1933年)
  • 『睦仁 日本のカイザー』(Mutsuhito – Kaiser von Japan、1933年)
  • 『今日の世界政治』(Weltpolitik von heute、1934年)
  • 『空間を超える力』(Raumüberwindende Mächte、1934年)
  • ナポレオン1世』(Napoleon I、1935年)
  • キッチナー』(Kitchener、1935年)
  • フォッシュ』(Foch、1935年)
  • 『世界大戦前後の大国』(Die Großmächte vor und nach dem Weltkrieg、カール・ハウスホーファー、ルドルフ・チェーレン共著、カール・ハウスホーファー、フーゴー・ハッシンガードイツ語版オットー・マウルドイツ語版エーリッヒ・オブストドイツ語版共編、1935年)
  • 『世界大洋と世界大国』(Weltmeere und Weltmächte、1937年)
  • 『発酵する世界 ドイツの地政学者による現代の報告』(Welt in Gärung. Zeitberichte deutsche Geopolitiker、カール・ハウスホーファー、グスタフ・フォクラー=ハウケドイツ語版共編、1937年)
  • インド太平洋地域に於けるドイツの文化政策』(Deutsche Kulturpolitik im indopazifischen Raum、1939年)
  • 『地政学の基礎』(Geopolitische Grundlagen、1939年)
  • 『日本はライヒを築く』(Japan baut sein Reich、1941年)
  • ドイツ民族の発展 多様な部族からナツィオンの統一へ』(Das Werden des deutschen Volkes. Von d. Vielfalt der Stämme zur Einheit der Nation、1941年)
  • 『大陸ブロック ミッテルオイローパ・ユーラシア・日本』(Der Kontinentalblock. Mitteleuropa, Eurasien, Japan、1941年)
  • 『国防地政学 国防学の地理学的基礎』(Wehr-Geopolitik: Geographische Grundlagen der Wehrkunde、1941年)
  • 『ライヒ 西洋に於ける大ドイツの発展』(Das Reich. Großdeutsches Werden im Abendland、1943年)

邦訳

  • カルル・ハウスホーファー著、日本青年外交協会研究部(服田彰三)訳『太平洋地政学 地理歴史相互関係の研究』(日本青年外交協会、1940年/リプリント、大空社《アジア学叢書 第132巻》、2005年) - Geopolitik des Pazifischen Ozeans全訳
  • ハウスホーファー、マウルドイツ語版他著、玉城肇訳『地政治学の基礎理論』(科学主義工業社、1941年) - Bausteine zur Geopolitik抄訳など
  • カール・ハウスホーファー著、土方定一坂本徳松訳『地政治学入門』(育成社〈新世代叢書 第12巻〉、1941年) - Bausteine zur Geopolitik抄訳
  • カール・ハウスホーファー 著、石島栄、木村太郎 訳「東亜建設の理念」『大東亜地政治学』投資経済社出版部、1941年https://dl.ndl.go.jp/pid/1877193/1/141?keyword=%22%E5%92%8C%E8%98%AD%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E5%8D%94%E4%BC%9A%22 
  • ハウスホーフアー著、太平洋協会編訳『太平洋地政学』(岩波書店、1942年) - Geopolitik des Pazifischen Ozeans全訳
  • ハウス・ホーファー教授著、若井林一訳『大日本』(洛陽書院、1942年) - Dai Nihon: Betrachtungen über Gross-Japans Wehrkraft, Weltstellung und Zukunft全訳
  • ハウス・ホーファー教授著、若井林一訳『生命圏と世界観』(博文館、1942年) - Raumüberwindende Mächte全訳
  • ハウスホーファー著、佐々木能理男訳『日本』(第一書房、1943年) - Japans Reichserneuerung von der Meiji-Ära bis heute抄訳
  • カール・ハウスホーファー著、窪井義道訳『大陸政治と海洋政治』(大鵬社、1943年) - Weltmeere und Weltmächte抄訳
  • カール・ハウスホーファー著、梅沢新二訳『日本の国家建説』(竜吟社、1943年) - Japan baut sein Reich全訳

ハウスホーファーが登場するフィクション

脚注

  1. ^ Christian W. Spang: Karl Haushofer und Japan. Die Rezeption seiner geopolitischen Theorien in der japanischen Politik. Monografie des Instituts für Japanstudien, Band 52, 2013, S. 86 ff. books.google
  2. ^ Spang, Christian (2006). Japanese-German Relations 1895-1945. Routledge. p. 139–157. ISBN 041545705X 
  3. ^ a b c d e ハウスホーファー」『改訂新版 世界大百科事典、日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、山川 世界史小辞典 改訂新版、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、百科事典マイペディア、367日誕生日大事典』https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BCコトバンクより2025年4月4日閲覧 
  4. ^ a b 1945年10月17日、ニュルンベルクにおけるハウスホーファーの証言、ジョン・トーランド永井淳訳『アドルフ・ヒトラー』(集英社文庫)第一巻、pp.393-394 ISBN 978-4087601800
  5. ^ E. D. ファン・ワルリー 1936.
  6. ^ シュパング、2001年、4p
  7. ^ 地政学」『デジタル大辞泉、精選版 日本国語大辞典、日本大百科全書(ニッポニカ)、改訂新版 世界大百科事典、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、百科事典マイペディア、山川 世界史小辞典 改訂新版』https://kotobank.jp/word/%E5%9C%B0%E6%94%BF%E5%AD%A6コトバンクより2025年4月4日閲覧 
  8. ^ 劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者|キャスト・映画・動画配信情報・最新情報一覧”. アニメイトタイムズ. アニメイト (2024年8月28日). 2025年4月4日閲覧。

参考文献

  • クリスティアン・W・シュパング、「カール・ハウスホーファーと日本の地政学 一 第1次世界大戦後の日独関係の中でハウスホーファーのもつ意義について」、『空間・社会・地理思想』、第6号(2001年)、2-21頁。
  • クリスティアン W シュパング、「日独関係におけるカール・ハウスホーファーの学説と人脈1909 - 1945」、中田潤 訳、『現代史研究』、第46号(2000年12月)、35-52頁。
  • Christian W. Spang, "Karl Haushofer Re-examined – Geopolitics as a Factor within Japanese-German Rapprochement in the Inter-War Years?", in: C. W. Spang, R.-H. Wippich (eds.), Japanese-German Relations, 1895-1945. War, Diplomacy and Public Opinion, London/New York: Routledge, 2006, pp.139–157.
  • Christian W. Spang, Karl Haushofer und Japan. Die Rezeption seiner geopolitischen Theorien in der deutschen und japanischen Politik, München: Iudicium, 2013. ISBN 978-3-86205-040-6.

関連項目

外部リンク


カール・ハウスホーファー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 15:33 UTC 版)

戦略地政学」の記事における「カール・ハウスホーファー」の解説

カール・ハウスホーファーの地政学は、ラッツェルとチェーレンの理論発展させたものである後者2人地政学領域組織体としての国家指導者に使役させるためのものとして考えていたのに対しハウスホーファーミュンヘン学派では、戦争帝国設計関連する地理学が特に研究された。それにより、それまで地政学者らの行動規範は、生存圏世界権力への行動ドクトリンへと変貌したハウスホーファー地政学を「最も広い意味での土地対す土壌Reich境界内の土地だけでなく、より広範なVolkと文化的領土対す権利保護する義務」と1935年定義した文化そのものが、ダイナミックな拡大を最も助長する要素であると考えられていた。軍事力商業力に頼るだけでは難しくとも、文化拡張最適な地域指針となり、拡張安全なものにすることができた。 ハウスホーファーにとって、国家存在生存圏依存しており、その追求すべての政策根底になけれならないドイツ人口密度高かったのに対し旧来の植民地保有国人口密度低かったドイツ資源豊富な地域への進出事実上使命となっており、緩衝地帯影響力のない国を国境沿いに置くことでドイツ守られるものと考えられた。 この必要性は、小国存在国際体制政治的後退無秩序証拠であるとするハウスホーファー主張リンクしていた。ドイツ取り巻いている小国家は、極めて重要なドイツ秩序中に取り込まれるべきであった。これらの国家は、(たとえ大規模な植民地維持していたとしても)実質的な自治維持するには小さすぎて、ドイツ国内での保護組織化によってより良い結果得られるだろうと考えられていた。 ハウスホ―ファーは、ヨーロッパにおける、ベルギー・オランダ・ポルトガル・デンマーク・スイス・ギリシャ・オーストリア-ハンガリーの「分裂した同盟」が、自らの主張強化していると見ていた。 ハウスホーファーミュンヘン学派地政学は、最終的には、1914 年ドイツ国境の回復1897年外務大臣ベルンハルト・フォン・ビューロー唱えた世界政策陽のあたる場所」をはるかに超えて生存圏アウタルキー概念拡大していくことになる。彼らは、新ヨーロッパ秩序、新アフロ・ヨーロッパ秩序、そして最終的にユーラシア大陸全体秩序目標とした。この概念は、アメリカモンロー主義と、国家大陸自給自足理論由来するパン・リージョンとして知られるうになる。これは、植民地求め動き前向きに再構築したものであり、地政学的には経済的な必要性としてではなく威信問題として、また古い植民地大国圧力をかけるためのものである考えられていた。基根本的な原動力は、経済的なものではなく文化的精神的なものであったパン・リージョン経済的な概念だけでなく、戦略的な概念でもあった。ハウスホーファーは、ハルフォード・マッキンダー提唱したハートランド戦略的概念認めたドイツ東欧ひいてはロシア領土支配することができれば敵対的なシーパワー封じる戦略的地域支配することができる。イタリア日本との同盟は、ドイツユーラシア大陸における戦略的支配力をさらに強化し、これらの国が孤立したドイツを守る海軍力となることを意味する

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