イスラエルと王制の崩壊とは? わかりやすく解説

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イスラエルと王制の崩壊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)

エジプトの歴史」の記事における「イスラエルと王制の崩壊」の解説

詳細は「エジプト革命 (1952年)」を参照 第二次世界大戦後エジプト駐留英軍撤退スーダン支配権巡ってイギリス交渉重ねたが、実質的な進展得られなかった。そして交渉最中新たな問題としてパレスチナ紛争持ち上がった20世紀前半ヨーロッパユダヤ人の間ではパレスチナへの「帰還」を目指す運動活発化していた(シオニズム)。ナチス・ドイツによる迫害相まってイギリス委任統治にあったパレスチナには第二次世界大戦前からユダヤ人移民が相次ぎ終戦後には独立したユダヤ人国家創設計画された。しかしパレスチナではアラブ人人口多数派占めており、イギリスがこれを拒否すると、ユダヤ人たちは反英テロ活動活発化させ、パレスチナ内戦状態陥った1947年にはイギリス自体収拾断念し国際連合介入要請したアメリカ大統領トルーマンらの介在によって1947年11月パレスチナ分割決議国連成立しパレスチナユダヤ人地域アラブ人地域分割されることが決定された。しかし、この分割案は人口比3割に過ぎないユダヤ人に6割の領土割り振るという内容であり、アラブ人側が受け入れることは不可能なものであった1948年5月14日イスラエル初代大統領ダヴィド・ベン=グリオン国連決議基づいてイスラエル国家の建設宣言すると、エジプト及び周辺アラブ諸国シリアヨルダンレバノンイラク)がイスラエル宣戦布告し第一次中東戦争勃発した。しかし、当時アラブ側は全く戦争準備整っておらず、エジプト首相ムハンマド・アル=ヌクラーシー(英語版)が準備不足理由参戦反対したが、威信回復を必要としていたファールーク国王強引に参戦決めた。だが、ファールーク期待反してエジプト軍イスラエル軍敗退繰り返し、逆侵攻受けてシナイ半島占領された。1949年1月イギリスイスラエルに対してエジプト領内からの撤退要求して最後通牒突きつけたために、エジプト領土喪失回避することができたが、敗北は明らかであり、同年2月参戦諸国の中で最も早くイスラエルとの休戦追い込まれた。 この敗戦は既に失墜していたムハンマド・アリー朝権威回復不能打撃与えた準備不足の中、劣悪な装備補給体制での戦い余儀なくされた兵士たちの間では、国王とその延臣たちが軍事費を懐に入れて私腹を肥やしているという噂が広まり、また実際にその種の汚職行為が行われてもいた。戦時中ファールーク行状、特に男子生まれなかったことを理由人気高かった王妃ファリーダと離婚したことや、荒淫繰り返したこと、さらに終戦後にはユダヤ系女性との再婚計画し、それが失敗した後には最終的に17歳少女ナリマン・サディク再婚して長期新婚旅行出たことなどが評判悪化拍車をかけた。 第一次中東戦争前線指揮を執ったガマール・アブドゥル=ナーセルナセル)などが作る自由将校団メンバーたちは王制打倒決意し準備始めた同時に政情不安がエジプト覆った首相ムハンマド・アル=ヌクラーシーは1948年12月ムスリム同胞団1928年3月小学校教師ハサン・アル=バンナーによって設立されイスラーム社会建設目指す団体団員によって暗殺され次いで首相となったイブラーヒーム・アブドゥル・ハディ(英語版)はムスリム同胞団指導者逆に暗殺するなどして治安回復したが、国王周辺兵器購入スキャンダル調査行おうしたため在任7か月ファールークによって解任された。 その後ファールークはナッハースを首相に戻して経済状況改善目論んだうまくいかなかった。支持失っていたナッハースとファールーク1951年10月以降スーダン一方的併合宣言イギリスとの同盟破棄駐留イギリス軍対す補給停止イギリス製品ボイコットなど反英活動呼びかけなどを次々に行うという賭け出た。この反英活動官民一体となって繰り広げられエスカレートし、翌1952年にはイギリス軍エジプト警官隊の間で武力衝突発生した。この衝突切っ掛けカイロでは激し反英デモ繰り広げられ、やがて暴徒化して市の中心部破壊された(黒い土曜日事件)。このデモ最中ですら、国王ファールーク息子誕生パーティー開き、そのために軍と警察王宮警備集中させるなど当事者意識欠如露呈したこのため国民反英感情急速に国王感情転じた暴動翌日ファールークはナッハース首相解任したが、その後王制下で安定した政権組織されることはなかった。 王制維持悲観的になったファールーク資産一部スイス移動させるとともに、軍への統制強化乗り出した。そして危険分子と見なされた自由将校団メンバー一斉検挙計画したが、これを事前察知した自由将校団即座にクーデター打って出た民衆はこのクーデター歓迎し1952年7月26日王宮クーデター部隊によって包囲された。クーデター部隊国民的人気のあったムハンマド・ナギーブ将軍の名前でファールーク同日中に国外へ退去するように最後通牒突きつけた。ファールークアメリカ・イギリス介入期待した実現せず退位書に調印してイタリア亡命した1953年6月ナギーブ首班とする革命評議会正式に王制の廃止宣言しファールーク亡命後暫定的に国王とされていたフワード2世廃位されエジプト共和制移行したエジプト革命)。

※この「イスラエルと王制の崩壊」の解説は、「エジプトの歴史」の解説の一部です。
「イスラエルと王制の崩壊」を含む「エジプトの歴史」の記事については、「エジプトの歴史」の概要を参照ください。

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