イスラエルと王制の崩壊
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「エジプトの歴史」の記事における「イスラエルと王制の崩壊」の解説
詳細は「エジプト革命 (1952年)」を参照 第二次世界大戦後、エジプトは駐留英軍の撤退とスーダンの支配権を巡ってイギリスと交渉を重ねたが、実質的な進展を得られなかった。そして交渉の最中、新たな問題としてパレスチナ紛争が持ち上がった。 20世紀前半のヨーロッパのユダヤ人の間ではパレスチナへの「帰還」を目指す運動が活発化していた(シオニズム)。ナチス・ドイツによる迫害も相まって、イギリスの委任統治下にあったパレスチナには第二次世界大戦前からユダヤ人の移民が相次ぎ、終戦後には独立したユダヤ人国家の創設が計画された。しかしパレスチナではアラブ人が人口多数派を占めており、イギリスがこれを拒否すると、ユダヤ人たちは反英テロ活動を活発化させ、パレスチナは内戦状態に陥った。1947年にはイギリスは自体の収拾を断念し、国際連合の介入を要請した。アメリカ大統領トルーマンらの介在によって1947年11月にパレスチナ分割決議が国連で成立し、パレスチナはユダヤ人地域とアラブ人地域に分割されることが決定された。しかし、この分割案は人口比3割に過ぎないユダヤ人に6割の領土を割り振るという内容であり、アラブ人側が受け入れることは不可能なものであった。 1948年5月14日、イスラエル初代大統領ダヴィド・ベン=グリオンが国連決議に基づいてイスラエル国家の建設を宣言すると、エジプト及び周辺のアラブ諸国(シリア、ヨルダン、レバノン、イラク)がイスラエルに宣戦布告し第一次中東戦争が勃発した。しかし、当時のアラブ側は全く戦争準備が整っておらず、エジプトも首相ムハンマド・アル=ヌクラーシー(英語版)が準備不足を理由に参戦に反対したが、威信回復を必要としていたファールーク国王は強引に参戦を決めた。だが、ファールークの期待に反してエジプト軍はイスラエル軍に敗退を繰り返し、逆侵攻を受けてシナイ半島を占領された。1949年1月にイギリスがイスラエルに対してエジプト領内からの撤退を要求して最後通牒を突きつけたために、エジプトは領土喪失を回避することができたが、敗北は明らかであり、同年2月参戦諸国の中で最も早くイスラエルとの休戦に追い込まれた。 この敗戦は既に失墜していたムハンマド・アリー朝の権威に回復不能の打撃を与えた。準備不足の中、劣悪な装備と補給体制での戦いを余儀なくされた兵士たちの間では、国王とその延臣たちが軍事費を懐に入れて私腹を肥やしているという噂が広まり、また実際にその種の汚職行為が行われてもいた。戦時中のファールークの行状、特に男子が生まれなかったことを理由に人気の高かった王妃ファリーダと離婚したことや、荒淫を繰り返したこと、さらに終戦後にはユダヤ系女性との再婚を計画し、それが失敗した後には最終的に17歳の少女ナリマン・サディクと再婚して長期の新婚旅行に出たことなどが評判の悪化に拍車をかけた。 第一次中東戦争で前線指揮を執ったガマール・アブドゥル=ナーセル(ナセル)などが作る自由将校団のメンバーたちは王制打倒を決意し準備を始めた。同時に政情不安がエジプトを覆った。首相ムハンマド・アル=ヌクラーシーは1948年12月にムスリム同胞団(1928年3月に小学校教師ハサン・アル=バンナーによって設立されたイスラーム社会の建設を目指す団体)団員によって暗殺され、次いで首相となったイブラーヒーム・アブドゥル・ハディ(英語版)はムスリム同胞団の指導者を逆に暗殺するなどして治安を回復したが、国王周辺の兵器購入スキャンダル調査を行おうとしたために在任7か月でファールークによって解任された。 その後ファールークはナッハースを首相に戻して経済状況の改善を目論んだがうまくいかなかった。支持を失っていたナッハースとファールークは1951年10月以降、スーダンの一方的併合宣言、イギリスとの同盟破棄、駐留イギリス軍に対する補給停止とイギリス製品ボイコットなど反英活動の呼びかけなどを次々に行うという賭けに出た。この反英活動は官民一体となって繰り広げられてエスカレートし、翌1952年にはイギリス軍とエジプト警官隊の間で武力衝突が発生した。この衝突を切っ掛けにカイロでは激しい反英デモが繰り広げられ、やがて暴徒化して市の中心部が破壊された(黒い土曜日事件)。このデモの最中ですら、国王ファールークは息子の誕生パーティーを開き、そのために軍と警察を王宮の警備に集中させるなど当事者意識の欠如を露呈した。このため国民の反英感情は急速に反国王感情に転じた。暴動翌日にファールークはナッハース首相を解任したが、その後王制下で安定した政権が組織されることはなかった。 王制維持に悲観的になったファールークは資産の一部をスイスに移動させるとともに、軍への統制強化に乗り出した。そして危険分子と見なされた自由将校団のメンバーの一斉検挙を計画したが、これを事前察知した自由将校団は即座にクーデターに打って出た。民衆はこのクーデターを歓迎し、1952年7月26日、王宮がクーデター部隊によって包囲された。クーデター部隊は国民的人気のあったムハンマド・ナギーブ将軍の名前でファールークに同日中に国外へ退去するように最後通牒を突きつけた。ファールークはアメリカ・イギリスの介入を期待したが実現せず、退位書に調印してイタリアに亡命した。1953年6月、ナギーブを首班とする革命評議会は正式に王制の廃止を宣言し、ファールーク亡命後暫定的に国王とされていたフワード2世が廃位され、エジプトは共和制に移行した(エジプト革命)。
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