Y一家監禁事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/07/09 12:24 UTC 版)
「北九州監禁殺人事件/del20140716」の記事における「Y一家監禁事件」の解説
Yの問題でC・D・Eの呼び寄せ 1997年4月にXは湯布院事件で一家C・D・Eをマンションに呼び寄せたのをキッカケに、久留米に住むC・D・Eを夜頻繁に小倉まで呼び寄せるようになる。Xは当初はYとの関係について離縁を含めた話し合いをC一家と行い、高額の手切れ金をC・Dに飲ませて離縁話がまとまる直前にYとの子供2人はXが引き取るという条件を持ち出し、子供好きのYに離縁する気を無くさせ、離縁話が無くなった代わりとして殺人者であるYを匿う費用を要求した。世間体を気にするC一家はこの要求に従った。その後、XはC一家に対してYの問題で様々な名目で金を要求するようになる。Yは「両親(C・D)と妹EはXから自分絡みのことで大金を要求されて金をつくるよう指示され、小倉ではいつもお金をつくる話をしていた」と供述している。 また、C・D・Eは昼間は仕事をして夜に久留米から小倉まで通って朝に久留米に戻るという生活で睡眠時間が少なくなっていた。Dは睡眠不足から小倉に通う途中で自動車事故を起こしてムチウチ状態となったが、それでも小倉に通い続けた。夜にはXから酒を飲まされながらYの問題を話し合う過程で家族同士の愚痴を聞き出し、弱みを握る。 Cらが金が用意できなくなると、XはC一家に対して通電などの虐待を行うようになり、無理矢理でも金を用意させるように追い詰めさせて金を巻き上げた。 さらにCにB殺害現場の配管を交換させ、証拠隠滅に加担させた負い目を負わせた。豊田正義によると農協系土地改良区副理事としてさらに上のポストを目指していたCが世間体を気にして娘が殺人犯であることが世間に発覚することをおそれ、XにB殺害現場の配管交換をするよう言いくるめられたと推理している。 XとEの男女関係 Xの証言によると、1997年4月からXとEは肉体関係を結んだ。XはEとの関係についてこれが初めてではなく、高校3年生時に花火大会でE(当時14歳)をひっかけてホテルで肉体関係を持っていた。なお、Yと交際を始めたばかりの頃は、高3時に肉体関係を結んだ相手がYの妹であることを知らなかった。Xの証言によると、1997年時はEが積極的に誘ってきたと主張している。 1998年当時のXはYに対しては「俺はEから誘われたけど断り、関係を持たなかった」とEとの男女関係を否定していた。だが、YはXが話を誤魔化すとき自分からせきを切って話し始める癖を知っており、当時から妹EがXと肉体関係があったと判断していた。 またD死亡後に関するYの証言によると、Xは家族を別々のマンションに分けて住まわせた際にEと自分を一緒にしたことについて「当時、妹Eは買い物役をさせられていたが、それ以外は推測ですので、申し上げなくてもいいと思う」と言葉を濁した。EとFを別々のマンションに分けて住まわせたことについて「Eは虐待以外の時はGと一緒に浴室に閉じ込め、XがEをFから引き離して寵愛したわけではない」としている。 また妹Eの死亡前の時期に、義弟Fと不仲になる頃に妹Eの生理が止まった。それについてXが「急に痩せたりする体調変化で生理が止まったんだろう」と自分を納得させるかのように話し出していたことから、当時はわからなかったが、逮捕後に法廷に立った時点ではEはXの子を妊娠していたと推測するようになった。またYは、Eの妊娠発覚は、自分や義弟Fの反感を買ってXによる一家支配の困難化になるとし、XがEの生理が止まっている中で陰部への通電を行ったのは自分の子を流産させるため、XのE殺害は妊娠発覚を防ぐため、とそれぞれ推測している。 Xの証言によると、「Fから自分とEの男女関係を問い質されたことはない」とEの関係について明白な問答をFとしなかったことを示唆した上で、「Fは自分とEの男女関係を察知していたと思う」と推測している。 Y義弟Fの取り込み&姪G・甥Hの人質化 妻Eとのその両親C・Dが毎晩のように外出して明け方に帰ってくるのを不審に思っていたFは、Eと共に小倉のマンションに向かう。 XはFがYと血の繋がりがないことや元警察官という経歴から、YやCに対しては「Fは信用できない」と警戒していた。しかし、Xは実際にFに会った際に他の家族とは別格に扱い、婿養子で立場の弱いFをことさら持ち上げた。 Xは酒の席でC・D・Eから様々な秘密を聞き出し、それをFに聞かせた。 XはEが過去に妊娠中絶をし結婚後も職場で不倫していたことなど酒の席で聞き出しており、それをFに話したところFは相当ショックを受けた。Eの妊娠中絶や職場の不倫はXが聞き出すまでは「Eと深いことも相談しあう仲だった親友1人」しか知らないことだった。 さらにXはCがFの婿養子入りする際の土地名義変更が未だに不履行であることを挙げて、FがC一家に不信感を募らせるように仕向けた。Xからプライドを擽られたFはXを「よき理解者」として気を許すようになり、「義母Dは食事のおかずを作り過ぎ・手伝えとばかりにレタスを広げる」とC一家に不満をぶつけた。さらにXは「C一家は殴られて当然」とFをそそのかして義父C・義母D・妻Eを殴らせたが、Xが「強くしないんですか?」と言うと、Fはさらに3人を強く殴った。これによりC・D・Eの3人がFに憎悪するよう仕向けた。 一方で、Eから「Fが自宅寝室にダブルベッドを置いて部屋のスペースを狭くした」「早朝にFからセックスを求められた」とする愚痴が出ると、XはEの立場になって「女性を侮蔑している!」とFを責め立てた。 これらによってEとFは夫婦仲が悪化し、Xが仲裁して「離婚に関する協議内容合意覚書念書」を作成した。 FはXから聞かされた妻Eの妊娠中絶や不倫の話についてEを小倉のビジネスホテルで問いただして、Eが認めると逆上して首を絞める等の暴行をしたとして、Xによって事実確認書が作成された。さらに義父Cが農協から借入する際、借用書に連帯保証人として関与した8月に「いつまで妻の家の奴隷でいるのですか」とFにそそのかしてFは住民票と妻と子供2人と共に自分の実家に移していたが借用書では元の住所を記載したため借用書の文書偽造罪として追求。さらにXはFにB殺害現場の浴室タイルを張り替えさせ、殺人事件の証拠隠滅罪として追求した。Xは前述のFの行為を犯罪行為として度々蒸し返し、「元警察官たるものがッ!」という枕詞にFを罵倒して罪悪感を負わせて心理的に追い詰めた。これによりFがC一家を率いてXに抵抗する事態はありえなくなった。 さらに、Fは「子供たちを残して北九州に来るのは心配で中々こられない」とXに漏らしたのをきっかけに、XはEとFの子供である娘Gと息子Hを連れてくるよう説得し、8月の小倉の夏祭りをきっかけにGとHは小倉のXのマンションに呼び寄せられたが、それ以降GとHを帰さず人質化した。 Y一家6人を支配下 Yの問題を名目にC一家の奇妙な北九州通いは続き、その過程でYやAに通電という虐待行為を行っていることを知り、約束不履行などを名目にC一家にも通電されるようになる。8月になるとC・E・Fは勤務先を頻繁に欠勤するようになった。 F一家4人には住民票登録上の転居が3回あり、9月中旬に熊本県玉名市のマンションに転居したが、玉名市での居住実態はなかった。保育園児であるHは保育園を8月末で退園し、小学生のGは転校先の小学校に殆ど通わなくなり、Fは9月19日を最後に事務所に出社しなくなった。 CはYの問題で重度のストレス障害となって8月中旬に入院するも、9月下旬にはXによって強引に退院させられた。 金が足りなくなるとCは農協からお金を借りたり、Dが消費者金融から金を借りたり、EやFを退職させて退職金を作るなどして、XはY一家に金を貢がせた。EとFの退職は有給休暇を使い切った後の10月31日付の退職届が勤務先のポストに投函され、Eは職場や上司の自宅まで電話して、退職金早期支払いを求めた。 また、Cの親類は指名手配中のXとYを逮捕するためにCの家周辺に張り込むようになった。1997年11月中旬に久留米の家に戻ったDが警察官に指名手配中のXとYの居場所を聞かれるも、Dは警察官に居場所を知らないと述べたが、警察官から離れた直後に携帯電話でXに家に警察が張り込んでいることを知らせている。 C一家はCの父名義の土地の売却を画策するも、C一家4人の行動を不審に思った親類が売却できないように資産保全を図る仮登記で対応。Cは親類に仮登記解除を求めるも拒否された。C一家4人はXの指示で親類に対して仮登記解除を求める手紙を送りつけた。12月19日にCとDは土地の名義人であるCの父に会って仮登記解除について話し合うも、Cの父は拒否した。 C一家に警察が張り込んでいることとCの父が仮登記解除に応じないことを知ったXは、C一家に金を貢がせる術が無くなったとして最終的に監禁状態にした。11月下旬にCは勤務先の職場で同僚に喫煙を理由に外に出て、Dは歯科医院に虫歯治療の予約をキャンセルしたのを最後にC一家の行方はわからなくなった。地元ではC一家が失踪したと噂が立った。 XはC一家に対して虐待によって自分たちの言うことを聞かせ、個々の弱みにつけこんで争わせたり、EがXの手先になって密かに盗聴器を仕掛けたことを明かしたりするなどして、C一家を相互不信に陥らせた。マンションの狭い一室、通電を含めた様々な虐待により、当時同じようにXの支配下におかれていたAと同様に、XはC一家への支配を確立していった。C一家がXに貢いだ金は少なくとも約6300万円に上る。親族から金を調達できなくなったCは「もうこうなったら、Xにぶら下がって生きていくしかありません」と宣言するまで思考停止状態になっていた。
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