F1と国際的な名声とは? わかりやすく解説

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F1と国際的な名声

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/15 09:26 UTC 版)

エリック・ブロードレイ」の記事における「F1と国際的な名声」の解説

初期の成功マーク2での失敗という経験のあったブロードレイは、1961年レッグ・パーネル依頼で、パーネルのバウメーカー・ヨーマン・レーシングチームのためにF1マシン設計と製造行ったマーク4名付けられマシンは、一般的なチューブラースペースフレーム方式設計されたが、フロントサスペンションにはアンダーアームウィッシュボーンアッパーアームはトランスバースリンクとラジアスアームという革新的な手法採用された。リアサスペンション上下ともトランスバースリンクとラジアスアームの組み合わせとされた。このブロードレイのアイデアは、1970年代に入るまで採用され続けたマーク4当初コヴェントリー・クライマックス直4使用していたが、後に1.5リッターV8搭載された。ジョン・サーティースロイ・サルバドーリスピード見せデビュー戦1962年オランダGPサーティースポールポジション獲得するが、完走することはできなかった。サーティースは、マロリーパークで開催された「2000ギニー(ノンチャンピオンシップ戦)」で勝利を上げイギリスGPドイツGP2位獲得した。 バウメーカー・ヨーマンチームは1962年をもってグランプリ撤退しチーム所有するマーク4タスマンシリーズ投入された。サーティースチームメイトのトニー・マッグズは好走見せニュージーランドGP(非世界選手権戦)でサーティース勝利を挙げた1963年に向け、パーネルは1台をボブ・アンダーソン売却し、もう1台にクリス・エイモン乗せて走らせたが、エイモン好成績を残すことはなかった。アンダーソンプライベーターありながら、ノンチャンピオンシップ戦のローマグランプリで勝利を挙げることに成功したフォーミュラ・ジュニア用のマーク5は、1962年通じて9台を販売したが、ディック・アトウッド改良版マーク5A駆りモナコGPでのフォーミュラ・ジュニアレースで勝利を収めた程度で、成功したとは言えなかった。 1963年のレーシングカーショウで、マーク6(ローラGT)が発表された。マーク6センセーショナルで、1970年代までレーシングカー流れを示すものであったマーク6フォード4.2リッターV8エンジンにコロッティの4速ギアボックス組み合わせたマシンで、グラスファイバー製の流線型ボディまとっていた。ハンドリング良く、「並外れたコーナリング速度」を実現していた。出力250馬力しかなかったが、1963年のル・マン24時間レースではギアボックストラブルでデビッド・ホッブスがクラッシュするまで快走見せるに充分だった。 ル・マンでの勝利を目指すフォードはこのパフォーマンス強い関心示し、ブロードレイに1年契約申し込んだ。この契約GT再設計するもので、フォード(スラウにあるFord Advanced Vehicles)からの支援を含むものだった。こうして作製されたのがフォード・GT40であるが、これはマーク6細部修正しただけのものであった.。 18ヵ月後、ブロードレイはフォード袂を分かつ。ブロードレイはスラウにあるフォード拠点近くにある工場引き継ぎローラ開発行った。この工場最初に作成したのは、ミッドランド・レーシング・パートナーシップ向けのマーク5Aで、アトウッド用の車両だった。このマーク5A改名されマーク53呼ばれた派生モデルマーク54がF2用に製作され、これもミッドランド使用された。アトウッドマーク54駆りポーアルビニュルブルクリンクレース2位獲得し、マッグズはエイントリー2位入った1965年モノコック構造単座シャシー、T60がF2とF3向けに投入された。T60は5台が製作されたが、成功を収めることはなかった。改良モデルT61とT62がミッドランド含め7チーム販売されたが、これらも成功を収めることはなかった。1965年にはT70リリースされたが、こちらは対照的な成績収め、「最も長い成功運命付けられスポーツカーと言われた。シボレー製の5.4リッターまたは6.2リッターエンジンと、ヒューランド4速またはZF5速ミッション組み合わせるマーク6GT40倣った手法がとられた。決し新しい手法ではなく先の2台とほとんど同じ構造見せていた。FIAはほぼT70のためにグループ9(後のグループ7)を制定したサーティースイギリス国内レースワークスチームT70乗りブランズハッチの「ガーズトロフィー」で優勝を飾るなどした。1965年には15台を販売し、翌1966年には改良版マーク232販売したインディ500への初参戦にはT804.2リッターフォード組み合わせ臨んだが、結果を残すことはできなかった。1966年チームオーナーのジョン・メコムは改良されT90を3台注文しジャッキー・スチュワートグラハム・ヒル、ロジャー・ワードの3人を走らせたスチュワートトップ走行中の190周目に脱落しヒル勝利を挙げた1967年には大改造施したT90が、アル・アンサーの手2位入っている。 1967年T70改良していたブロードレイは、カナディアン-アメリカン・チャレンジカップシリーズで圧倒的な強さ見せていたマクラーレン対峙するようになり、サーティースラスベガスで1勝を挙げたヨーロッパで行われていたプロトタイプカーレースの規則合わせ、ブロードレイは重く信頼性欠けアストンマーティンDOHCエンジン用にクーペボディを作製した。このマシンニュルブルクリンクル・マンリタイア終わりエンジン信頼性の高いシボレー製の5.7リッターエンジンに換装した。これによりサスペンション弱点あらわになったが、プライベーターとしてホーキンスエプスタイン組がスパ1000キロ制しホーキンスラブ組がキャラミ9時間耐久2位獲得した1968年、シボレーエンジンのクーペグループ4ホモロゲーション得た。ワークスサポートが無く世界選手権結果を残すことはできなかったが、100台以上がプライベーター向けに作製販売された。プライベーター筆頭デニス・ハルムであり、この年RACツーリストトロフィーでまずは勝利を挙げた1969年には改良版マーク3B(正式名T76)が作製され軽量化された車体新しボディワーク備えていた。この車両フランク・ガードナー、トレバー・テイラー、ポール・ホーキンス、1969年から1970年にかけてSCCA複数勝利を挙げ、初の世界選手権シーズンに臨むマイク・デ・ウディらの手渡ったまた、デイトナ24時間ではマーク・ダナヒュー/チャック・パーソンズ組が優勝(ローラ1-2フィニッシュ)し、オーストラリア1000キロではヨアキム・ボニエ/ヘルベルト・ミューラー組が2位入ったこの年ローラ選手権3位となった。 ブロードレイは単座レーシングカー放棄していたわけではなく1967年にはモノコック構造の完全新設計となるF2用、T100作製した。しかしT100トラブル多発していたラジアルバルブを採用したBMWエンジン搭載しており、時間費用無駄遣いであったエンジン競争相手だったコスワースFVA換装すると、サーティースゾルダーとマロリーパークで勝利を挙げランス2位入った改良施されT102となったマシンが、後にBMW供給された。同じ年、ブロードレイはサーティースとともにF1マシン、T110を開発した放棄された。ホンダ向けのF1マシン(RA300、RA301)も1967年供給されたが、こちらはやや重過ぎたきらいがあった。しかし、イタリアGPにおいて勝利を収めることに成功したアメリカ製5リッター市販車ブロックエンジンとT70サスペンション用いたフォーミュラA用のマシンとして、ブロードレイはスペースフレームの単座マシンT140作製した。このマシンフォーミュラAに相当するイギリスフォーミュラ5000用のT142の元となった1968年、ブロードレイはインディ500T150で再挑戦したT150は、二輪駆動にも四輪駆動にも対応する設計がされていた。四輪駆動のほうがより望ましいと判明したが、二輪駆動よりも大きな駆動力得られるにも関わらずアンサークラッシュしてしまった。ブロードレイはT70後継としてT160用意していた。これはカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ参戦するアメリカプライベーター供給された。一方サーティース競争力欠けローラ見限りウェスレイク用意したシボレーエンジン搭載車での参戦計画していた。 1969年、ブロードレイのT162はマクラーレン圧倒され作製されたのは7台のみであった後継T163多少進歩果たしパーソンズ2位1回3位を2回獲得することに成功した。ただし、FA/F5000用の新マシンT190は、モノコック構造採用し、T142よりも進歩していたが、運転は非常に難しかった。それでもフランク・ガードナーはどうにか乗りこなしスラクストンシルバーストン勝利を挙げることでT190に競争力があることを示し、ブロードレイの注目得た。ブロードレイはT190の改良版T192を作製しガードナー以後開発テスト監督するよう依頼した。 ブロードレイのもとには、F2、F3、フォーミュラ・フォードフォーミュラ・Vee、フォーミュラ・スーパーVeeフォーミュラ・アトランティックカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ車両注文殺到し1970年代には多忙になった。1972年まで、ローラ実質的にレーシングカー市販する唯一のメーカーであったローラヨアキム・ボニエ要望により作製したT280速さ示したが、ガードナー存在こそあったものの、専門開発チームを持たなかったことが開発障害となった。それでも、多く車種のうち、完全な失敗作となるものはほとんどなかった。

※この「F1と国際的な名声」の解説は、「エリック・ブロードレイ」の解説の一部です。
「F1と国際的な名声」を含む「エリック・ブロードレイ」の記事については、「エリック・ブロードレイ」の概要を参照ください。

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