F1とその他フォーミュラカーシリーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 05:15 UTC 版)
「リチャード・アトウッド」の記事における「F1とその他フォーミュラカーシリーズ」の解説
アトウッドのF2でのパフォーマンスによりBRMの経営者、アルフレッド・オーウェンはアトウッドにワークスF1チームのシートを提供した。アトウッドのBRMからの初の出走は、グッドウッドで開催された非選手権レース、"News of the World Trophy"だった。このレースでアトウッドはBRM・P57で4位となったが、これはコーリン・チャップマン率いるロータスの車両以外では、優勝車と同一周回でフィニッシュした唯一の車両だった。アトウッドの2度目の出走は1964年イギリスグランプリで、実験的な四輪駆動車、P67をドライブした。この四輪駆動車プロジェクトのテストドライバーのアトウッドは、この重量過多のマシンで決勝に駒を進めることに成功し、最後尾ではあったがグリッドを獲得した。しかしながら、P67は基本的にテスト用のものであるため、BRMは決勝を前に出走を取り消した。 アトウッドはティム・パーネルと、パーネルのチームであるレッグ・パーネルレーシングのロータス・25を1965年シーズンにドライブする契約を結んだ。25はかつては一流のマシンだったが、アトウッドにとっては、1965年にはすでにベストのマシンではなくなっていた。また、搭載されたBRMエンジンも完全に競争力が欠けていた。マシンの信頼性は高かったが、シーズン全体でのポイント獲得は2度の6位だけだった。 1966年、アトウッドはBRMのタスマンシリーズチームの一員としてオーストラリアとニュージーランドに向かった。タスマンでのアトウッドのパフォーマンスは、ニュージーランドのレビンでの勝利を含めて有望なものでだったが、それにもかかわらず –1965年のF1での失望的なパフォーマンスが原因かも知れないが– アトウッドは1966年から1967年にかけてはF1のレギュラーシートを得ることはできなかった。この間にアトウッドが出走したのはクーパーのレギュラードライバーペドロ・ロドリゲスの代わりに参戦した1967年カナダグランプリだけで、このレースではクーパー・マセラティを10位でゴールさせた。1966年はF2に参戦し、ローマグランプリで勝利を挙げたほか、ポーでは同地で2度目となる2位を獲得した。しかし、1967年にはスポーツカーレースに注力した。 1968年のインディ500でマイク・スペンスが不慮の死を遂げると、アトウッドは運営者がパーネルに変わっていたBRMワークスチームに再加入し、スペンスの空いたシートに収まった。BRMに戻っての最初のレースはアトウッドにとっての最高のレースだったかも知れない。アトウッドは1968年モナコグランプリでファステストラップを記録し、グラハム・ヒルのワークスロータスに次ぐ2位を獲得した。しかしその後の成績は下降線を辿り、シーズンの最終4戦を残しアトウッドはボビー・アンサーと交代させられた。 常にモナコを得意としていたアトウッドは、そのモナコで最後のF1レースをスタートした。コーリン・チャップマンは負傷したヨッヘン・リントの代わりにアトウッドにロータス・49Bをドライブさせ、アトウッドは4位を獲得した。これがアトウッドにとって最後のF1ドライブとなったが、フランク・ウィリアムズのチーム(フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ)からブラバムのF2マシンで1969年ドイツグランプリに参戦した。そのレースを総合6位でフィニッシュし、F2クラスでは2位となった。
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