F1とインディ(CART)との比較論争
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「マイケル・アンドレッティ」の記事における「F1とインディ(CART)との比較論争」の解説
1993年、自身の輝かしいアメリカでのキャリアに比べて、F1で思うような成績を収められなかったことと、同年に入れ替わる形でF1からCARTに転向したナイジェル・マンセルがCART初年度の初戦でポールtoウィン達成、そして見事にその年のCARTシリーズチャンピオンを獲得したことにより、F1とCARTのドライバーのレベル差が論争の的となった。 F1で採用されているスタンディングスタートに不慣れであったことは、開幕から3戦で総周回数4周足らずという結果から見て取れる。マンセルもCARTのローリングスタートには手を焼いており、レーススタートやリスタートで順位を落とすことが多かった。インディ500でも最後のフルコースコーションでリスタートを失敗し、順位を1位から3位まで落としたことが優勝を逃した理由として大きい。 アンドレッティ以外のケースでは、ジャック・ヴィルヌーヴがCARTチャンピオン獲得後にF1でもチャンピオンを獲得したが、アレックス・ザナルディはCARTを席巻しチャンピオン獲得後F1に復帰するものの全く結果を残せなかった。ファン・パブロ・モントーヤは1999年にCARTチャンピオンとなりF1に転向、初年度からF1でも活躍しトップクラスのドライバーとして評価を得ている。2008年にはCART後継シリーズのチャンプカーで4年連続チャンピオンの金字塔を樹立したセバスチャン・ボーデがスクーデリア・トロ・ロッソからF1に参戦し注目を集めたが成績不振で2009年の第9戦ドイツGPを最後に解雇されている。 アンドレッティが期待と裏腹の成績に終わった理由は、「アメリカのオープンな雰囲気とF1の閉鎖的な雰囲気の違いに馴染めなかった点」「欧州に拠点を置かずレース毎にアメリカからサーキットへ入る生活を続けたことから、なかなか思う通りの成績を収めることができなかった点」「当時のF1マシンはサイドプロテクターが無く、肩まで露出するコックピットに恐怖を覚えていた点」があげられることが多い。 しかし後年、息子であるマルコ・アンドレッティは、「当時、将来有望で手頃なテストドライバーであったミカ・ハッキネンが父の後ろで控えていたため、マクラーレンが故意にアンドレッティを悪く見られるような作業をした。セナさえも不憫に思い、自身のスペアカーをレースカーに提供したいとチームに進言したほどだった」と発言し、マクラーレンチームを糾弾している。真偽のほどは定かではないが、マクラーレンはこの発言に対し、公式な回答はしていない。そもそも、シーズン前はハッキネンとのコンビとなる予定だったが、開幕直前にセナがチームに残留することを決意し、その結果、ハッキネンがテストドライバーに降格し、彼とのコンビになったという経緯がある。そのうえ、当時のチームリーダーのロン・デニスは、セナをお気に入りのドライバーとして扱っており、ロータスから移籍したハッキネンに期待をかけていた。そのため、デニスおよびチームが残留したセナを優遇し、ハッキネンを早くデビューさせたいと考え、アンドレッティを冷遇した可能性はある。現にアンドレッティも、チームの雰囲気がセナ・ハッキネンのコンビになるよう自身に圧力をかけていたとしており、チーム内での神経戦があったことは否めない。 ただ、チームメイトがセナだったことがマイナスに働いた可能性はある。もともと、セナは神経質で内向的な性格と言われており、当人はそこまで悪い関係ではなかったとしたものの、デニスもセナは人間関係を築くことが難しい人物であったとコメント。ハッキネンもテストドライバーの間は穏やかな関係であったが、チームメイトになった途端、彼の態度が冷たいものになったことには驚いたが、ポルトガルGPでセナを上回ったことでセナの態度を変える結果となったとコメントしている。他にも、当時のチーム幹部マーティン・ウィットマーシュの後年のインタビューによれば、彼の起用は商業的な面やデニスの独断という面があり、自身は乗り気ではなかった。そのうえ、セナがチームメイトに対し冷徹な一面を見せることがあった点から、その点に関してはアンドレッティに対し同情している。ただし、欧州に拠点を作らない生活をしていたことについては批判しており、彼の実力は認めつつもチームメイトとしては力不足であったと考えている。 ただし、マシンの戦闘力に苦しんだ面はある。F1が当時から現在に至るまでチームごとに独自のシャシーかつハンドメイドに近く、チームの状況により成績およびマシンの戦闘力が左右されることが当たり前であった。それに対し、当時のCARTはレイナード、ローラの二社が競技用に生産した量産品に近く、チームやマシンよりドライバーの腕で成績が左右されるのが基本であった。実際、アンドレッティがマクラーレンのテストに参加した1991年と1992年、参戦した1993年のマシンの性能はそれぞれ異なっており、マシンの特性を把握できなかった可能性はある。また、マンセルやヴィルヌーヴが当時最強の戦闘力を発揮していた年のウィリアムズでドライブできたのに対し、ザナルディとボーデは、所属チームにとって不遇の時代であり、マシンの戦闘力が低い時期に参戦した面もある。実際、本人もテストやフリー走行の経験を本番で生かせなかったことは認めている。
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