1987年死刑確定囚(8人)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 07:37 UTC 版)
「日本における死刑囚の一覧 (1970-1999)」の記事における「1987年死刑確定囚(8人)」の解説
事件名(死刑囚名)判決確定日事件発生日備考(執行日など)裕士ちゃん誘拐殺人事件 (S) 1987年1月19日 1986年5月9日 1940年(昭和15年)9月20日生まれ。1986年12月22日に東京地裁刑事第5部(高島英世裁判長)で死刑判決を受け、本人の控訴取り下げにより死刑確定。1983年に「永山基準」が示されて以降、被害者1人の殺人事件としては初めて死刑が確定した事件である。1995年5月26日に東京拘置所で死刑執行(54歳没)。 連続企業爆破事件(大道寺将司) 1987年4月20日(上告審判決への訂正申立に対する棄却決定日) 1974年8月30日-1975年5月4日 1948年(昭和23年)6月5日生まれ。共犯の一部が超法規的措置で出国。1979年11月12日に東京地裁(蓑原茂広裁判長)で死刑判決を、1982年10月29日に東京高裁(内藤丈夫裁判長)で控訴棄却判決を受けた。1987年3月24日に最高裁第三小法廷(伊藤正己裁判長)で上告棄却判決(第一審・控訴審の死刑判決を支持)を受け、同判決への訂正申し立ても1987年4月20日付で棄却されたため、益永とともに死刑が確定。同決定により共犯者の黒川芳正は無期懲役、共犯の女も懲役8年が確定した。交流誌「キタコブシ」が出ていたほか、著書『死刑確定中』や句集『鴉の目』『棺一基』『残の月』などがある。東京拘置所に収監されていたが2017年5月24日に収監先・東京拘置所内で多発性骨髄腫のため病死(68歳没)。 連続企業爆破事件(益永利明) 1987年4月21日(死刑確定日) 1974年8月30日-1975年5月4日 1948年(昭和23年)6月1日生まれ(旧姓:片岡)。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在73歳)。裁判経緯は同上。1987年4月21日に判決訂正申立の棄却決定を通知され、死刑が確定。その直前(同年4月7日)に獄中結婚していた。国家賠償請求訴訟を多数提訴しているほか、交流誌「ごましお通信」が出ていた。著書『爆弾世代の証言』がある。 名古屋保険金殺人事件 (I) 1987年4月15日 1979年11月19日 - 1983年12月25日 1942年(昭和17年)6月27日生まれ。1985年12月5日に名古屋地裁刑事第2部(鈴木雄八郎裁判長)で死刑判決を受けた。1987年3月31日に名古屋高裁刑事第1部(山本卓裁判長)で控訴棄却判決を受け、上告せず1987年4月15日付で死刑確定。1998年11月19日に名古屋拘置所で死刑執行(56歳没)。共犯のHは1993年9月に最高裁で死刑が確定し、2001年12月27日に名古屋拘置所で死刑執行。 名古屋市女子大生誘拐殺人事件(木村修治) 1987年8月6日 1980年12月2日 1950年(昭和25年)2月5日生まれ。愛知県名古屋市の被差別部落出身(参考:白山中学校事件)。1982年3月23日に名古屋地裁(塩見秀則裁判長)で死刑判決を、1983年1月26日に名古屋高裁(村上悦夫裁判長)で控訴棄却判決を受けた。1987年7月9日に最高裁(大内恒夫裁判長)で上告棄却判決を受ける。判決訂正を申し立てたが、同年8月4日の第一小法廷決定[事件番号:昭和62年(み)第6号・7号]によって棄却され、同月6日付で死刑が確定。最高裁上告後「水平社宣言」や死刑廃止運動を知り、1986年2月には死刑廃止運動を行う死刑囚による「日本死刑囚会議・麦の会」に入会、同年には同会運営委員となる。上告審では死刑違憲論を主張するも棄却。大道寺将司・益永利明・坂口弘らとともに統一獄中者組合員として獄中活動。1993年9月に恩赦出願。1995年1月に手記『本当の自分を生きたい 死刑囚・木村修治の手記』(インパクト出版会)を出版。恩赦出願の結果は代理人に通知されないまま、1995年12月21日に名古屋拘置所で死刑執行(45歳没)。また日本死刑囚会議・麦の会『死刑囚からあなたへ 国には殺されたくない』(インパクト出版会)に手記「強く、優しく生き抜いてください」を寄稿(死刑執行後の1997年3月刊行)。 秋山兄弟事件(秋山芳光) 1987年8月29日 1975年8月25日 1929年(昭和4年)8月23日生まれ。秋山兄弟(双生児)の弟。兄が経営していた紙工場の元従業員。兄(無期懲役が確定)と共謀し、1975年8月、千葉県市川市で知人の会社社長(当時47歳)をバットで撲殺、現金約1,000万円を奪って遺体を畑に埋めた。また、自分の妻(当時37歳)に多額の保険金をかけて殺害しようとした。1976年12月16日に東京地裁刑事第20部で死刑判決を受け、1980年3月27日に東京高裁第12刑事部(千葉和郎裁判長)で控訴棄却判決。1987年7月17日に最高裁第二小法廷(香川保一裁判長)で上告棄却判決を受ける。判決訂正申立も同年8月28日付の決定[事件番号:昭和62年(み)第9号・10号]によって棄却され、翌日(8月29日)付で死刑が確定。2006年12月25日に東京拘置所で死刑執行(77歳没)。死刑執行時の年齢は、それまで戦後最高齢とされていた古谷惣吉(71歳3か月)や、秋山と同日に処刑された今市4人殺傷事件の藤波芳夫(当時75歳)を上回る。また、確定判決(上告審判決)から19年5か月後の死刑執行であるが、これは2000年以降では最長記録である。共犯者である兄も芳光とともに死刑を求刑されたが、従犯とされ、第一審で無期懲役判決を受けた。検察官が死刑を求めて控訴したものの、控訴審でも無期懲役が支持され、確定。芳光は2003年8月、主犯は兄であるとし再審請求したが、棄却されている。 東村山署警察官殺害事件 (T) 1987年11月17日 1976年10月18日 1925年(大正14年)1月30日生まれ。旧姓K。1977年11月18日に東京地裁八王子支部(現:東京地裁立川支部)刑事第2部で死刑判決を受け、1981年7月7日に東京高裁第8刑事部(市川郁雄裁判長)で控訴棄却判決。1987年10月23日に最高裁第二小法廷(牧圭次裁判長)で上告棄却判決を受ける、判決訂正申立も同年11月16日の第二小法廷決定[事件番号:昭和62年(み)第12号]によって棄却され、同年11月17日付で死刑が確定。1995年5月26日に東京拘置所で死刑執行(70歳没)。 熊本連続強盗殺人事件(平田直人) 1987年12月18日 1979年3月28日 1932年(昭和7年)1月1日生まれ。1980年10月2日に熊本地裁(辻原吉勝裁判長)で死刑判決を受け、1982年4月27日に福岡高裁(平田勝雅裁判長)で控訴棄却判決を受けた。1987年12月18日に最高裁(牧圭次裁判長)で上告棄却判決を受け死刑確定。事実誤認を主張して再審請求していたが棄却され、1995年12月21日に福岡拘置所で死刑執行(63歳没)。
※この「1987年死刑確定囚(8人)」の解説は、「日本における死刑囚の一覧 (1970-1999)」の解説の一部です。
「1987年死刑確定囚(8人)」を含む「日本における死刑囚の一覧 (1970-1999)」の記事については、「日本における死刑囚の一覧 (1970-1999)」の概要を参照ください。
- 1987年死刑確定囚のページへのリンク