1970年代の躍進と共産党排除の進展
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「日本共産党」の記事における「1970年代の躍進と共産党排除の進展」の解説
1970年7月の第11回大会で、革新統一戦線によって1970年代の遅くない時期に民主連合政府を作るとの政権構想を打ち出し。1972年の第33回衆議院議員総選挙では38名の候補者が当選し、議会第3党、野党第2党に躍進する。また、同年には田代文久が特別委員会の石炭対策委員会委員長に選出され、共産党議員として初の国会委員長が、誕生した。 一方、党の内部では、1972年には中央委員で青年学生対策部長であった広谷俊二と日本民主青年同盟(民青同盟)幹部であった川上徹を中心とした分派が結成され、その摘発といういわゆる「新日和見主義事件」が発生した。 「新日和見主義事件」を参照 1973年の東京都議会議員選挙では当選者数が日本社会党を上回り、1975年の統一地方選挙では大阪府知事選挙で黒田了一を共産党の単独推薦で再選させた。 1973年11月、第12回党大会で綱領を一部改定し、「ソ連を中心とする社会主義陣営」から「ソ連を中心とする」を削除し、「労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立」の後半を「プロレタリアート執権の確立」に変更した。更に1976年7月、第13回臨時党大会で綱領から「プロレタリアート執権の確立」自体を削除して「労働者階級の権力」のみとし、また綱領と規約の「マルクス・レーニン主義」を「科学的社会主義」に変更した。また「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」では、民主連合政府では憲法9条を「あくまで厳守する」として「竹やり論」とも言われたが、同時に党としては「将来は、独立、中立の日本をまもるための最小限の自衛措置をとるべき」とした。 1974年、公明党の支持母体である創価学会と、松本清張の仲介で、池田大作と宮本顕治で相互不可侵、共存を約した協定を10年間の約束で結んだ(創共協定または共創協定)。しかし、自民党との関係悪化を恐れた公明党の抵抗もあり、協定は翌年の公表とほぼ同時に死文化。1980年、山崎正友による宮本顕治宅盗聴事件が発覚すると、両者の対立は決定的となり、協定の更新は行われなかった。その後、1980年6月、顧問弁護士・山崎正友が『週刊新潮』(平成5年10月21日号)で自らの犯行を告白。東京地方裁判所は2009年1月28日の判決で、山崎が共産党委員長宮本顕治邸盗聴事件を独断で行ったことを認定した。 1975年、『文藝春秋』で立花隆の「日本共産党の研究」が連載開始され、1976年、この連載に「日本共産党査問リンチ事件」の裁判記録が掲載された。当時委員長であった宮本顕治と、副委員長であった袴田里見が被告となった裁判の記事は大きな反響となり、国会でも取り上げられた。1976年の第34回総選挙では共産党の議席は17議席にまで落ち込んだ。 1976年に「自由と民主主義の宣言」という準綱領文書を採択し、ここでソ連モデルとは違う社会主義像を提起した。これは、当時イタリア共産党など西欧諸国の共産党が採択していたユーロ・コミュニズム路線に倣ったものであり、「ユーロ・ニッポコミュニズム」(欧州(西欧)的、日本的な共産主義)と呼ばれた。また1977年、袴田里見が除名された。一方で、1970年代後半からは一部の党員研究者によるネオ・マルクス主義(英語版)的な思潮も現れ、党中央との軋轢がはじまる。 1979年の第35回総選挙では、最高の39議席を得た。1979年10月に林百郎が衆議院懲罰委員長に選出され、共産党議員として初の国会常任委員会委員長が誕生した。その後は自民党や産経新聞を中心とする「自由社会を守れ」キャンペーンや、サンケイ新聞事件などの強烈なネガティブキャンペーンの影響で落ち込む。この当時、『小説吉田学校』を執筆した戸川猪佐武が、『小説自民党対共産党』という本を出している。「70年代は自共対決の時代」と持て囃されたこともあった。 日本社会党と日本共産党は、日本政治の中では革新陣営に属し、中道の民社党、公明党をはさんで保守の自由民主党に対峙する位置にあった。「55年体制」の成立以来、政権は一貫して自民党の手にあり、社共共闘、あるいは全野党共闘により政権交代を樹立するというのが当初の社共の方針であった。 共産党は民主連合政府で、社会党との連立を前提としていたが、社会党内部には社共共闘より社公民路線を重視すべきだという意見が有力となった。民公、特に強い反共主義姿勢を持つ民社の側(特に春日一幸)からの、共産排除要求もあった。これに同調したのが、社会党内の構造改革派・社公民路線派の一部が社会党左派に追われる形で独立した社会民主連合であった。共産党が勢力を伸ばすにつれて、総評系労組(特に官公労)など、各種運動団体で社共の主導権争いが激化し、それらの団体を主な支持基盤とした社会党との関係にも悪影響を及ぼした。 1979年4月、東京都知事選挙で革新統一候補の元総評議長太田薫が敗れると、社会党は公明党との関係強化(1980年1月にいわゆる〈社公合意〉を締結した)による右傾化を進め社共共闘は瓦解した(社会党側からは「共闘を通じて社会党員、支持者が、共産党に流れてゆき、票と議席が減っていったことに不信感を持った」とも言われている)。1980年代には、「自民党と“共産党を除く”全野党の国会対策委員長による会談」(国対政治)が常態化して共産党の排除が進んだ。
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