1970年代の活動
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「民族主義者行動党」の記事における「1970年代の活動」の解説
党首テュルケシは、1969年の総選挙でアナトリア中南部のアダナ選挙区から国会議員に当選した。国会における同党の保有議席数は、1973年に3名、1977年に16名のみであったが、共和人民党と公正党の2大政党の間にあってキャスティング・ボートを握ることに成功した。民族主義者行動党は、1975年、1977年に、公正党、国民救済党などと共に、公正党党首デミレルを首班とする連立政権に参加した。デミレル政権では、テュルケシが副首相として入閣したほか、治安関係の閣僚ポストを獲得し、軍や警察への影響力を拡大した。 民族主義者行動党は、議会への進出を行う一方で、党組織による合法、非合法の議会外活動を重視した。1970年代に左右の政治対立が激化すると、党の青年組織として「灰色の狼 (Bozkurt)」が設立され、軍部の黙認を受けて、左翼的な知識人、学生に対する脅迫、テロ活動を盛んに行った。また、宗教的少数派であるアレヴィー派も彼らの標的となり、1978年には「灰色の狼」メンバーが、トルコ東南部のカフラマンマラシュで100名以上のアレヴィー派信徒を虐殺し、戒厳令が発令される事件も起きた(カフラマンマラシュ事件)。
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1970年代の活動
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1971年3月、劇団『文学座』の入所試験を受けるも一次の筆記試験で不合格。同年5月、金子信雄主宰の劇団「新演劇人クラブ・マールイ」に入団。ここで最初の妻美智子と知り合う。 1972年4月、文学座付属演技研究所十二期生となり、文学座同期には阿川泰子、高橋洋子、山西道広、1期後輩に中村雅俊、1期先輩に桃井かおりがいた。役者に専念するために、6月には大学に退学届を出す。この頃、『突撃! ヒューマン!!』のヒューマン/岩城淳一郎役のオーディションを受けたという。また、1969年(昭和44年)頃の無名時代に新宿駅東口のトリスバー「ロック」でバーテンダーを務めていた際に、客として来ていたひし美ゆり子、原田大二郎、村野武範らと知り合い交友を結んでいる。村野は自身が出演していた『飛び出せ!青春』のプロデューサーである岡田晋吉が新人俳優を探していることを聞き、「自分の研究所にちょっと面白い男がいる。」と松田を推薦した。岡田が後で聞いた話によると、村野は優作を優秀な俳優として推薦したわけでなく、この前日麻雀に負けた時の約束で、仕方なく優作を岡田に紹介したということだった。岡田は文学座の稽古場に視察に行くと、芝居に対する体当たりの真剣さと、強引とも思える度胸の良さに驚く。テストでチョイ役に出演させると、迫真の演技にスタッフも度肝を抜かれた。これがきっかけで、1973年、刑事ドラマ『太陽にほえろ!』にジーパン刑事としてレギュラー出演、その活躍・殉職シーンが話題となる。また、志垣太郎主演の東宝『狼の紋章』にて映画初出演を果たした。 同時期、『太陽にほえろ!』出演を機に「現在は松田優作という通称名を使っているので番組の関係者にも知られていませんが、もし僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが失望すると思います」という理由で法務省に帰化申請を行い、日本国籍を取得。これにより、通名だった松田優作が本名となった。 1974年には黒木和雄監督の時代劇映画『竜馬暗殺』で、主演の原田芳雄と共演し、時代劇初出演。松田優作は原田芳雄に心酔し、後に原田の隣の家に引っ越したという。続いて74年11月公開の澤田幸弘監督、日活制作のコメディ・青春映画『あばよダチ公』で映画初主演を果たす。映画評論家、樋口尚文は、同作品に高評価を与えている。 1976年1月31日、前年7月19日に行なわれた『俺たちの勲章』の鹿児島ロケ打ち上げの際、19歳の予備校生に対して共演者と共に暴力を振るい、全治3か月の重傷を負わせた容疑で警視庁新宿警察署に逮捕される。このため、毎日放送の4月新番組『隠し目付参上』をクランクイン寸前に降ろされ、1年間テレビドラマのレギュラー出演を自粛した。同年2月5日、東京地方検察庁は傷害容疑で松田を起訴、同年3月10日、東京地裁で懲役10月、執行猶予3年の有罪判決を受ける。 1976年、東映『暴力教室』 (岡本明久監督)により映画復帰を果たす。同作品では安西マリアらと共演した。また、同年に公開された時代劇『ひとごろし』では、臆病な侍という今までになかった役柄を演じ、時代劇初主演となる。同年7月25日にはアルバム『まつりうた』で歌手デビュー。1977年、刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰した。 1979年には村川透監督角川映画『蘇える金狼』主演。この映画の前には、ハワイへ飛び、射撃場で実弾射撃演習をおこなった。同年、澤田幸弘監督のアクション映画『俺達に墓はない』主演。また、映画では推理・ミステリー映画『乱れからくり』 (泡坂妻夫原作、児玉進監督)。同年にはテレビドラマ『探偵物語』に主演。この頃多くのアクション映画に主演しているが、ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、劇団の旗揚げも行う。
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