1970年代の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 14:00 UTC 版)
「IND2番街線」の記事における「1970年代の建設」の解説
1960年代初頭、イースト・サイドの開発が進展し、レキシントン・アベニュー線はさらに混雑するようになった。1962年にマンハッタン橋、ウィリアムズバーグ橋とIND6番街線を結ぶ連絡線の建設が開始された。この区間はクリスティー・ストリート連絡線と呼ばれ、1947年に2番街線の南端として最初に提案されたもので、マンハッタン橋とウィリアムズバーグ橋へと列車を流すものであった。1967年11月に開業した時点で、この連絡線にはIND6番街線の一部としてグランド・ストリート駅があり(1968年7月に57丁目駅も開業)、地下鉄の歴史の中でももっとも大きな運行系統の変更が実施された:216–217。クリスティー・ストリート(2番街の南端)の下に位置するグランド・ストリート駅は、6番街線と2番街線の対面乗り換えができるように設計された。 これとは別に、1967年に住民投票により25億ドル(現在の価値で191億6900万ドル)の運輸債券発行が承認され、このうち6億ドル(現在の価値で46億100万ドル)以上が1968年のプログラム・フォー・アクションを含むニューヨーク市のプロジェクトに充てられることになった。市は1964年都市大量輸送交通機関法(英語版)による2500万ドルの補助金を当初の建設用に確保した:219。プログラム・フォー・アクションでは、2番街線を2段階に分けて建設することを提案していた。第1段階は34丁目以北で、第2段階はそれ以南である。34丁目からブロンクスまでの2番街線プロジェクトは、最高の優先度を与えられた。しかし、この路線のマンハッタンでの途中駅は既存路線に比べて間隔が長くなっており、議論を招くことになった:37。2番街線は、「ロウアー・イースト・サイドの低中所得者層向け高層住宅とスラムを避けた金持ち用の急行列車である」と批判されることになった:218。この批判に応えて、MTAは72丁目と96丁目の駅を追加することになった。MTAは「コップの取っ手」と呼ばれる、ロウアー・イースト・サイドの中心部に達する支線の計画を発表した。IND6番街線の2番街駅付近で分岐し、ハウストン・ストリートを東へ走り、アベニューCで北へ曲がり、14丁目で西へ曲がってBMTカナーシー線へとつながる。 このプロジェクトに向けて、連邦および州からの資金が確保された。1972年3月に、プロジェクトの概要環境調査によれば、34丁目から126丁目までの区間の総工費は3億8100万ドルと見積もられた:1。1972年6月に、都市大量輸送交通機関法により2500万ドルの補助金がこの区間の建設に充てられると発表された。MTAはこの路線の北側区間のために連邦の資金を2億5400万ドル要求した。予備的な推計によれば、路線の南側の区間の建設費は4億5000万ドルと見積もられた。 99丁目から105丁目の区間のトンネルの一部が1972年10月に着工された。スパニッシュ・ハーレムにある110丁目から120丁目の2番目の区間は1973年3月に着工した。1973年10月25日にチャイナタウンの区間、マンハッタン橋の下のキャナル・ストリートとディビジョン・ストリートの間について、キャナル・ストリート側で工事に着手した。4番目の区間として、イースト・ヴィレッジの2丁目から9丁目の間で1974年7月25日に着工された。合計すると、1970年代の2番街線の工事は27ブロックに渡った。 ニューヨーク市は間もなく、1970年代初めの停滞した経済と、市民が大規模に郊外に移住していったことの影響で、それまででもっとも差し迫った財政危機に見舞われることになった。地下鉄網は既に衰退しつつあった。乗客数は1947年以来40パーセント減少しており、MTAへの2億ドルに及ぶ補助金と1952年の運賃値上げをもってしても、地下鉄網の基本的な維持費すら賄えず、ましてや2番街線のような大規模拡張プロジェクトを賄えなかった:52。1971年に計画が最終確定した時点で、2番街線は1980年までに完成することになっていたが:38、2年後には、完成は2000年と予想されるようになった:52。1974年10月、MTA会長のデービッド・ユニチは、42丁目以北の完成は1983年に、以南の完成は1988年に延期されたと発表した。1974年12月13日、ニューヨーク市長のエイブラハム・ビームは、51億ドルに及ぶ資金を2番街線建設からクイーンズにおける新線建設および急速に老朽化しつつあって喫緊に修理の必要があった既存のインフラストラクチャーの近代化に振り向ける6年間の交通網建設計画を発表した。ビームは1975年9月に路線の建設中断命令を出し、これによりすぐ2丁目から9丁目の区間の建設は中断され、路線建設に他の資金も割り当てられなかった。クリスティー・ストリート連絡線以外では、トンネル3区間のみが完成しており、これらのトンネルは封印された。 ニューヨーク市地下鉄が発足以来の最低の時期であった1978年に、州の会計監査役のアーサー・レヴィット(英語版)はこの路線を完成させる計画はないと発言した。1980年代中、2番街線の計画は停滞した。63丁目線の建設は続行され、IND側の区間は1989年に開通してクイーンズ側のロングアイランドシティにある21丁目-クイーンズブリッジ駅まで延長されたが、2番街線への連絡線は含まれなかった。この完成しなかったことについて、1981年以来地下鉄利用者の擁護者をしていたジーン・ルシアノフ(英語版)は、「ニューヨークで建設されずに来たもっとも有名なものであり、みんなが懐疑的であって、それは正しい。強く約束されていながら決して開通しない」と述べた。
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