模写
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模写(もしゃ、英: reproduction, reproduce)とは、美術において、他者の作品を忠実に再現し、あるいはその作風を写し取ることでその作者の意図を体感・理解するための手段、方法。またその行為によって生み出されたもの。したがって模写には再現のための知識・技量が必要となる。
歴史的な価値を生じた作品をそっくりに複製(英: copy)する手法は「転写」であり「模写」ではない。転写を行う背景の多くは歴史的価値のみを売買するために行われている[注釈 1]。
日本画や仏画においては古くから訓練、修行として、また絵画の精神性・様式・技法の伝達などを目的として模写が行われている[1]。 また、美術系大学では、授業の一環として古典画家の作品模写が取り入れられている。
絵画の保存(文化財の保存)を目的とした模写も行われており、原画が失われても模写が現存することで絵画の内容が伝わっている例もある[1]。 例えば、明治の日本では廃仏毀釈により危機に瀕した仏教美術の再認識が起こり、明治17年に桜井香雲によって保存を目的とした法隆寺金堂壁画の模写制作が行われ、以後も多くの画家が組織的に保存のための模写を行った[1]。昭和24年に起きた火災によって法隆寺金堂壁画は焼損したが、残された資料を基に昭和42年に再現模写が行われた。
保存のための模写では「上げ写し」や「敷き写し」などの技法で原資料から図像を写し取り、色見本を作成した上で彩色・裏彩色を施して制作される[1]。
脚注
出典
- ^ a b c d 東京芸術大学大学院文化財保存学日本画研究室(編)『図解 日本画の伝統と継承:素材・模写・修復』東京美術 2002 ISBN 4808707233 pp.56-75.
関連項目
模写
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伴大納言絵巻の模写は5点ほどが存在するとされている。2010年になって、中野幸一早稲田大学名誉教授が1980年代前半に購入した新たな模写の存在が明らかにされた。この模写では、色彩や文様の精細な復元に加えて、原本では剥落してしまった人物などの部分が巧みに復元されており、衣服の模様などが上記のX線調査の結果と大部分一致することが判明するなど、今後の研究における重要な資料になると期待されている。この模写は、収められていた桐箱の張り紙の記述から、幕末の画家冷泉為恭もしくは彼の一門が手がけたとみられる。
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模写
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「フィンセント・ファン・ゴッホ」の記事における「模写」の解説
詳細は「フィンセント・ファン・ゴッホの模写作品」を参照 ミレー『種まく人』1850年。油彩、キャンバス。ボストン美術館。 ファン・ゴッホ『種まく人』1889年10月、サン=レミ。油彩、キャンバス、80 × 64 cm。個人コレクションF 690, JH 1837。 ファン・ゴッホは、最初期からバルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレーを敬愛しており、これを模写したデッサンや油絵を多く残している。ニューネン時代の書簡で、アルフレッド・サンシエの『ミレーの生涯と作品』で読んだという「彼〔ミレー〕の農夫は自分が種をまいているそこの大地の土で描かれている」という言葉を引用しながら、ファン・ゴッホは「まさに真を衝いた至言だ」と書いている。 アルル時代(1888年6月)には、白黒のミレーの構図を模写しながら、ドラクロワのような色彩を取り入れ、黄色にあふれた『種まく人』を描き上げた。このほか、「掘る人(耕す人)」、「鋤く人」、「麦刈りをする人」などのモチーフをとりあげて絵にしている。しかし、生身の農民と多様な農作業を細かく観察していたミレーと異なり、ファン・ゴッホは実際に農民の中で生活したことはなく、描かれた人物にも表情は乏しい。むしろ、ファン・ゴッホにとって、これらのモチーフは聖書におけるキリストのたとえ話 に出てくる象徴的意味を与えられたものであった。例えば「種まく人」は人の誕生や「神の言葉を種まく人」、「掘る人」は楽園を追放された人間の苛酷な労働、「麦刈り」は人の死を象徴していると考えられている。ファン・ゴッホ自身、手紙で、「僕は、この鎌で刈る人……の中に、人間は鎌で刈られる小麦のようなものだという意味で、死のイメージを見たのだ。」と書いている。「種まく人がアルル時代に立て続けに描かれているのに対し、「麦刈りをする人」は主にサン=レミに移ってから描かれている。また、「掘る人」も、1887年夏から1889年春までは完全に姿を消していたが、サン=レミに移ってから、特に1890年春に多数描かれている。 レンブラント『ラザロの復活』 ファン・ゴッホ『ラザロの復活』1890年、サン=レミ。ゴッホ美術館F 677, JH 1972。 サン=レミ時代には、発作のため戸外での制作が制限されたこともあり、彼に大きな影響を及ぼした画家であるドラクロワ、レンブラント、ミレーらの版画や複製をもとに、油彩画での模写を多く制作した。ゴッホは、模写以外には明確に宗教的な主題の作品は制作していないのに対し、ドラクロワからは『ピエタ』や『善きサマリア人』、レンブラントからは『天使の半身像』や『ラザロの復活』という宗教画を選んで模写していることが特徴である。ゴッホは、ベルナールへの手紙に、「僕が感じているキリストの姿を描いたのは、ドラクロワとレンブラントだけだ。そしてミレーがキリストの教理を描いた。」と書いている。サン=レミでは、そのほかにギュスターヴ・ドレの『監獄の中庭』やドーミエの『飲んだくれ』など何人かの画家を模写したが、オーヴェルに移ってからは1点を除き模写を残していない。 ファン・ゴッホはこれらの模写を「翻訳」と呼んでいた。レンブラントの白黒の版画を模写した『ラザロの復活』(1890年)では、原画の中心人物であるキリストを描かず、代わりに太陽を描き加えることにより、聖書主題を借りながらも個人的な意味を付与していると考えられる。この絵の2人の女性マルタとマリアはルーラン夫人とジヌー夫人を想定しており、また蘇生するラザロはファン・ゴッホの容貌と似ていることから、自分自身が南仏の太陽の下で蘇生するとの願望を表しているとの解釈が示されている。
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模写
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/02 16:21 UTC 版)
養信は、職務とは別に、古画の模写に力を入れた。東京国立博物館所蔵分だけで、絵巻約130巻以上、和漢古画550点以上ある。詞書の書風は勿論、絵具の剥落や虫損まで忠実に写し取る、「現状復元」を行っている。彩色が省略されたものは、摸本からの摸写と推測される。 養信は模写の為、徳川将軍家はもちろん、『集古十種』などの編纂で模本を多く所蔵していた松平定信の白河文庫、狩野宗家中橋家や、住吉家らを始めとする諸家から、原本や模本を借りて写した。公務で江戸を離れられない為、京都・奈良に弟子を派遣して写させたり、ついにはどこの寺からでも宝物を取り寄せられるよう、寺社奉行から許可を得た。死の12日前まで、細川家の蒙古襲来絵詞を写した。 最も早い時期の模写は、数え年11歳の「保元平治物語物語図屏風」右隻(東京国立博物館蔵)である。父栄信の指導が考えられる。
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模写
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 05:49 UTC 版)
後世の模写として以下がある。 明代の沈慶による模写。フィラデルフィア美術館蔵。画中のキリンにジグザグ模様が加えられている。 清代の陳璋(中国語版)による模写。北京の中国国家博物館蔵。画中のキリンに明瞭な斑紋模様が加えられている。
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「模写」の例文・使い方・用例・文例
- 彼はゴッホの模写をした。
- これは原物を寸分違わず模写したものである
- (図画模写用の)伸縮器
- 彼らが少なくとも1つの模写を見るまで、科学者は実験の結果を信じてない
- 彼女は本物の絵の彼女の模写においてその大胆な効果を残した
- 声帯模写
- 透かして模写する
- 声帯模写をする
- 声帯模写という演芸
- 参考にするために模写した絵
- 模写したもの
- 哲学における模写説という学説
- 模写電送という,文字や図面などの伝送方式
- 原本を模写して作った本
- 実物を模写することができる
- 声帯模写をする職業
- 透かして模写することができる
- 自然主義演劇という,正確に現実を模写しようとする演劇
- 透かして模写した図面
- 模写する
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