おっぺけぺえ‐ぶし【おっぺけぺえ節】
オッペケペー節
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/09 12:53 UTC 版)
オッペケペー節(オッペケペーぶし)は、明治時代の流行歌である。日本最古の日本人の歌声として残っていることでも有名。
概要
大阪の落語家の桂文之助(二世曽呂利新左衛門)の門人の3代目桂藤兵衛または2代目桂梅枝が始めた。その弟子の浮世亭〇〇(まるまる)が川上音二郎となり、1889年に作詞[1]。1891年2月以降、壮士芝居の役者として舞台に立ち、大喜利に余興として歌った。後鉢巻きに赤い陣羽織を着て、日の丸の軍扇をかざして歌った。東京では、同年6月浅草中村座で歌った。人気が出ると歌詞は10数種類できている[2]。
歌詞
歌詞は資料によって歌詞や表記に多少の相違があるが、ここでは一例として小国政の『版画「川上音二郎書生演劇」』[3]から紹介する。
()内のひらがなはルビ、/\はくの字点である。
権利(けんり)幸福(こうふく)きらいな人に。自由湯をば飲(の)ましたい。オツペケペ。オツペケペツポー。ペツポーポー。
堅(かた)い上下角(かど)とれて「マンテル」「ヅボン」に人力車意気な束髪(そくはつ)ポン子ツト。貴女(きぢよ)に伸士(しんし)のいでたちで。外部(うはべ)の飾(かざり)はよいけれど政治の思想(しそう)が欠乏だ。天地の真理(しんり)が解(わか)らない。心に自由の種(たね)を蒔(ま)け。オツペケペ。オツペケペツポペッポーポー
米價(べいか)騰貴(とうき)の今日に。細民(さいみん)困窮(こんきう)省(みかへ)らす目深(まぶか)に被(あ)ふた高帽子(たかほうし)。金の指輪(ゆびわ)に金時計。権門(けんもん)貴顕(きけん)に膝(ひざ)を曲け。藝者(げいしや)たいこに金を蒔(ま)き。内には米を倉(くら)に積(つ)み。同胞(どうほう)兄弟見殺(みごろし)か。幾等(いくら)慈悲(じひ)なき慾心(よくしん)も。餘り非道(ひどう)な薄情(はくじやう)な但し冥土(めいと)の御土産か。地獄(ぢごく)でゑんまに面會し。わいろ遣ふて極楽へ。行けるかへゆけないよ。オツペケペ。オツペケペツポーペツポーポー
亭主の職業は知らないが。おつむは当世のそくはつで。ことばは開化のかんごで。みそかのことわりカメだいて。不似合だ。およしなさい。なんにも知らずに知た顔。むやみに西洋を鼻にかけ。日本酒なんぞはのまれない。ビールに。ブランデー。ベルモツト。腹にもなれない洋食を。やたらに喰ふのもまけおしみ。ないしよでこうかでへどついて。ましめな顔してコーヒ飲む。おかしいね。ヱラペケペツポ。ペツポーポー
侭になるなら自由の水で。國のけがれを落したい。オツペケペ。オツペケペツポーペツポーポー
むことり島田に当世髪。ねづみのかたきに違(ちが)いない。かたまきゾロ/\引づらし。舶来もようでりつぱだね。買う時ァ大層おだしだらう。夏向ァあつくていらないよ。其時ァおつかが。すいりよして。おそでにかくして一トはしり。からくり細工にいてくるよ。ヲヤ大きなこゑでは。いわれない内證たよ。ぶたいはけつきやうだ御免なさい。オツペケペ。オツペケペツポ。ベツポゝ。
おめかけぜうさんごんさゐに。芝居を見せるは不開化だ。かんぜんてうあく分(わか)らない。いろけの所に目をとめて。だいぢの夫(おつと)をそでにする。浮氣をすること必定だ。おためにならなゐ。およしなさい。國會開けたあかつきに。やくしやにのろけちやおられない。日本をだゐじに守りなさゐ。まゆげのないのがおすきなら。かつたいおいろに持なんせ。目玉むくのがおすきなら。たぬきとそいねをするがよゐ。オツペケ。オツペケベツポペツポーポー
親がひんすりやどんすのふとん。敷て娘は玉のこし。オツペケペ。オツベケペツポ。ベツポーポー
娘のかた掛りッぱだが。とつさんケツトを腰にまき。どちらも御客をのせたがる。娘のころぶを見ならふて。とつさんころんじやいけないよ。オツペケペ。オツペケペツポ。ペツポーポ
洋語をならふて開化ぶり。バンくふばかりが改良でねへ。自由の権利をこうてうし。國威をはるのが急務(きうむ)だよ。ちしきとちしきのくらべやゐ。キョロ/\いたしちや居られなゐ。窮理と発明のさきがけで。 異國におとらずやッつけろ。神國名義だ日本ポー
自由童子とオッペケペー
音二郎は、民権思想の新聞記者として自由童子を名乗り、入獄10数回を数えた[4]。政治的意見を表明すれば、すぐに弾圧される明治時代に音二郎は言いたいことをオッペケペーの歌詞の中でズバズバ言ったので、不満を感じていた民衆に爆発的な人気を博した[5]。
音源
1900年に川上音二郎一座が欧米興行を行った際にイギリスのグラモフォン・レコード社(EMIの前身)に「オッペケペー節」を録音、SP盤で発売された。音二郎の肉声は録音されていなかったが、これは日本人初のレコードへの吹き込みであったとされている。
そして、1997年に「オッペケペー節」など計28曲を一枚のCDにしたものが『甦るオッペケペー節』として東芝EMIから発売された。後に英EMIのアーカイブ音源がワーナー・ミュージック・グループに買収され、現在の日本での発売権はワーナーミュージック・ジャパンにある。
脚注
出典
- ^ オムニバス『恋し懐かし はやり唄』コロムビア・レコード,2006年
- ^ 紀田順一郎『幕末明治風俗逸話事典』p581、東京堂出版、1993年
- ^ “版画「川上音二郎書生演劇」 - 小国政 - Google Cultural Institute”. 2016年6月25日閲覧。
- ^ 紀田順一郎『幕末明治風俗逸話事典』p579-582、東京堂出版、1993
- ^ 紀田順一郎『幕末明治風俗逸話事典』p579-582、東京堂出版、1993
外部リンク
オッペケペー節
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 15:26 UTC 版)
1883年頃から、「自由童子」と名乗り、大阪を中心に政府攻撃の演説、新聞発行などの運動を行って度々検挙された。1883年9月13日、内務省より集会条例第6条違反で1年間政治演説を禁止された。1885年に講談師の鑑札を取得。自由民権運動の弾圧が激しさを増した1887年(明治20年)には「改良演劇」と銘打ち、一座を率いて興行を行った。また、落語家の桂文之助(後の二代目曽呂利新左衛門)に入門、浮世亭◯◯(うきよてい まるまる)と名乗った。やがて世情を風刺した『オッペケペー節』(三代目桂藤兵衛作)を寄席で歌い、1889年(明治22年)から1894・95年(明治27・28年)の日清戦争時に最高潮を迎えての大評判となる。 川上一座は書生や壮士ら素人を集めたもので、書生芝居、壮士芝居と呼ばれた。1891年(明治24年)2月、書生芝居を堺市の卯の日座で旗揚げ。同年、東京の中村座で「板垣君遭難実記」などを上演。東京でもオッペケペー節が大流行した。川上は1893年1月1日、鳥越座の初日をまえに突然神戸からフランスへ渡り、2か月ほどの短い間だがパリの演劇事情を視察した。 1894年、郷土の先輩である金子堅太郎の媒酌で、人気芸者の貞奴(本名:小山 貞)と結婚した。伊藤博文が貞奴をひいきにしており、伊藤博文の三羽カラスといわれた金子堅太郎に媒酌の役目が回ってきたとも。
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