関東大震災と復興
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「東京大学総合図書館」の記事における「関東大震災と復興」の解説
1923年(大正12年)9月1日、南関東一帯を激震が襲った。関東大震災である。帝国大学のある本富士町の震度は5弱から5強程度であったと思われる。当時図書館で業務にあたっていた西村貞雄の回想によると、地震のゆれによって館内では一部の書架が倒れ、また並べられていた図書が落ちて散乱するなどの被害が生じた。十字型の図書館の建物では、南北に延びる事務部分、玄関等の一部壁面に損傷を生じたが、閲覧室や書庫に目立った破壊部分はなかったという。この時点では所蔵資料への大きな被害は生じていなかった。 しかし、図書館の近く(現在の図書館団地の南側に当たる教育学部棟の位置)にあった医学部薬化学教室において、ゆれで薬品が床に落ちて発火し、建物に燃え移って火災が発生した。この火が薬物学教室を経て、破壊が生じていた図書館の南側屋根下から館内に侵入し、そのまま燃え広がって図書館全体が炎に包まれた。所蔵資料は1週間にわたって燃え続けた。当時の図書館の書庫も防火戸などの耐火設備が設けられていたものの、原因は不明だが結果的には延焼を防ぐことができなかった。図書館は煉瓦造の壁だけが燃え残り、多くの蔵書は屋根もろとも焼かれ尽くしてしまった。焼失した図書の確かな数は明らかでなく、『東京帝国大学五十年史』は約76万冊、『東京大学百年史 通史』は75万冊、図書館復興に携わることになった古在は70万巻とし、震災当時図書館職員であった植松安は、火災の中図書の救出を行ったが持ち出せたのは閲覧室備付の1万冊程度だったと顧みている一方で、同じく職員であった男澤は文部省往復等を基に、焼失冊数を56-57万冊と比較的少なく見積もっている。灰燼に帰した資料の中には、マックスミューラー文庫や曲亭馬琴日記の自筆稿本(15冊中1冊のみは持ち出される)など、貴重なものも多かった。この火災によって燃えて灰になった図書の一部や、直前に持ち出されて難を逃れた図書などは、館史資料として現在も総合図書館に所蔵されている。 震災から4日後の9月5日、事務室は工学部新館(現在の工学部2号館旧館)に移される。11月1日には耳鼻咽喉科研究室(現在の南研究棟)の地下室に移る。翌1924年(大正13年)1月には、バラック建築の約150席の仮閲覧室が設けられる。このころには耳鼻咽喉科研究室の地階を事務室、書庫として使っていた。また、仮閲覧室は道路を挟んで耳鼻咽喉科研究室の向かい、現在の附属病院外来診療棟の辺りに建てられていたようである。 仮の体制での開館が試みられる中で、東京帝国大学図書館の焼失は全世界に知られるところとなり、様々な支援の手が差し伸べられるようになった。震災が起きた9月の17日には、早くも国際連盟で東大図書館の復興援助が決議された。国内では10月から、海外からは11月のアメリカからの第1回寄贈図書をはじめとして、国内外からの寄贈図書が相次いで寄せられた。 1924年(大正13年)6月には、ロックフェラー財団のフレドリック・F・リュッセル(英語版)ら一行が図書館の仮事務室を訪れ、姉崎館長に面会した。この時点で、図書購入費や図書館建築費に関するほのめかしがあったと思われる。8月にはニューヨーク領事から外務省に対して東大図書館復興に関する問い合わせがあり、姉崎館長が必要金額等に関して回答している。また、姉崎が9月に友人のJames Woods宛に出した手紙では、寄附に関して建物の名前(例えば新しい図書館をロックフェラー図書館とする)を条件とされた場合への憂慮や、新たな図書館には記念室が設けられなければならないと考えていること、当時国内において対米感情が悪化していたため、米国のロックフェラーから寄附を受けることに対して議論が起こるかもしれないといった見通しなどが綴られている。同年12月30日、ロックフェラーから400万円を寄付するという電報が、当時の古在由直総長宛に送られてきた。憂慮されていた建物への命名の条件どころか、建設費用と図書購入費用との配分なども含めて一切の条件を付さなかった。ロックフェラーからの書簡のうち、以下に引用する最後の一節は極めて丁重なものであり、関係者を深く感心させ、米国からの寄附に反対する声も収まることとなった。 …… I quite realize that in time the Japanese people will themselves accomplish the complete restoration of their cities and institutions which have been destroyed. However, I shall regard it as a great privilege to be permitted to hasten the day when your University., which stands among the foremost institutions of learning in the world, will again be provided with adequate facilities.(訳文:日本國民が、その破壊せられた都市や學府の完なる回復を自力にて成就すべき事は、自分の確信する所に御座候。然しこれと共に又、世界の學界に優秀なる位置を占めらるゝ貴大學が、再び滿足なる圖書館設備を有せらるべき日の來る事を早むるについて、微力をその間に加ふるを容されむ事は、自分の大に欣懐とする所に有之候。) — ジョン・ロックフェラー、本文は本館記念室展示の書簡(複製)より 以降の図書館建設の経緯は、「現在の建物」の章に詳しく記すこととしてここでは要点を触れるに留める。新しい図書館の建設に当たっては、当時の古在由直総長を委員長とする図書館建設委員会が設立され、設計部長には内田祥三が就任した。1926年(大正15年)1月26日に地鎮祭を行って着工し、1928年12月1日に竣工、同日竣工式が開かれている。国内外から寄せられた多くの援助によって、図書館再建成った1928年度の年度末には東京帝国大学の蔵書が590,509冊(冊数は図書および製本雑誌のみ)となり、蔵書の面でも復興が進んだ。新たな図書館の開館に当たっては、東京帝国大学図書館規則の改定や、目録の作成事業、指定書制度の開始など、制度面においても新たな取組みが行われた。
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