関東大震災での救護活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/12 17:18 UTC 版)
「サミュエル・ロビンソン」の記事における「関東大震災での救護活動」の解説
1923年(大正12年)9月1日の昼に関東大震災が横浜市で発生した際、ロビンソンは初代エンプレス・オブ・オーストラリアに乗船していた。震災当日、彼は予定通りの出航に向けての日課の準備を終えようとしているところであったが、近代史上最大級の天災はそれらの優先順位に変更を迫った。大惨事が展開する中で、彼は船、乗組員、乗客、そして3,000名以上の人々の救護に当たり、高い評価を得た。 エンプレス・オブ・オーストラリアは荒廃した大都市東京から避難するに際して最大限の援助が可能であった船であり、同船の船長であるロビンソンの働きによって国際的な賞賛と表彰を獲得した。地震が停止した後に広まった混乱の中、ロビンソンは自身や乗組員ができる限りの援助を行い、東京湾内の横浜側の岸壁の近くに船を12日間繋留した。 船は数日間横浜に留まり続けた後、避難民を満載して神戸港へ向かった。 ロビンソンの献身的活動は、自身の用意したカナダ太平洋汽船本社への報告書では最小限に述べられた。彼は同報告を以下の通り、上品かつ謙虚に要約している。 最も満足のいったことの1つと、その全体の成り行きにおける支配的要因は、この恐ろしい大惨事の中で、私たちと向き合わねばならなかった船内の全員が、摩擦や意見の相違、不平を抱くことなく、共同で困難に取り組んだことである…最も厳しい者の何人かは家族、家庭または職業を、ある場合はこれらすべてを失ってしまっていた。 船の乗客と、震災の期間中に乗船していた避難民たちのあるグループは、救助活動を表彰するために青銅銘板の制作を注文して同船へ贈呈した。1952年にエンプレス・オブ・オーストラリアが解体された際に銘板は取り外され、バンクーバーでの特別式典にて、当時82歳になっていたロビンソンへ、公式に贈られた。
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