関東大震災と再度の鉄道網再編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 04:06 UTC 版)
「高島線」の記事における「関東大震災と再度の鉄道網再編」の解説
このように1920年代までに横浜の臨港鉄道網は整備され、鶴見 - 程ヶ谷間では旅客列車と貨物列車が別の線路に分離して運行する形態が実現していた。しかし大正時代の都市への人口集中に伴い、大都市の貨物駅が扱う貨物量が激増しており、既存の貨物駅の能力では処理が困難となってきていた。またこの当時、東京へ東海道本線側から発着する貨物列車の入換作業を受け持っていた品川操車場の能力も限界に達しつつあり、改良が必要となっていた。そこに1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生し、完成したばかりの2代目横浜駅のほか、桜木町駅、高島駅、東横浜駅などが甚大な被害をこうむった。これを契機として、抜本的な改良工事を実施することになった。 この際に2代目の横浜駅は、東海道本線・桜木町へ通じる電車線・高島 - 程ヶ谷間の貨物線に囲まれた場所に立地していて手狭であったこと、急曲線上に位置していて不便であったことなどから、横浜の震災復興の都市計画とも併せて検討の上で、日清戦争の際に神奈川 - 程ヶ谷間に軍が建設した短絡線上に3代目の横浜駅を建設して再移転することになった。1928年(昭和3年)10月15日にこの3代目横浜駅が開業した。 これと並行して貨物線の再編も進められた。品川と鶴見の間を新川崎経由で結ぶ東海道本線の貨物支線、通称品鶴線は1929年(昭和4年)8月21日に開通し、この区間に品川操車場の貨車操車作業を代替する新鶴見操車場が開設された。そして鶴見より西側では、旅客線に並行して程ヶ谷までの貨物線が建設され、程ヶ谷から先平塚までの既に開通していた貨物線と接続して、長大な区間の客貨分離が完成した。東海道本線の貨物列車はこの新設された貨物線経由で運行されるようになったことから、高島 - 程ヶ谷間の貨物線は不要となり、同年9月16日に廃止となった。これにより、臨港線は鶴見で東海道本線から、東神奈川で横浜線から分岐して埠頭へ至る行き止まりの貨物線となり、発着する貨車の多くは新鶴見操車場を経由して運行されるようになり、高島駅で補助的な操車作業を行う形態へと移行した。
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