関東大震災と木歩死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:10 UTC 版)
1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分、激しい大地震が関東地方一帯を襲った。下谷の凸版印刷で地震に遭った声風は、浅草瓦町の自宅に戻って無事を確認すると、親友の木歩のことが気になった。浅草公園の小料理屋「花勝」に寄ると、ここでも姉の富子が動けない弟の身の上を案じていた。吾妻橋を渡り須崎町の木歩の家に着いたが人影は無かった。 声風は引返して、再び土手の上を探し求めた。人混みの桜の木の下にゴザを敷いて木歩がいた。妹の静子や「新松葉」の半玉など三人ほどが囲んでいたが、女手ばかりでどうする手立てもなかった。 木歩の帯を解いて、声風はそれで木歩の体を自分の背中にくくりつけて貰った。人混みの中を一緒に逃げることは出来ない。ひとまず浅草の「花勝」を目標に、バラバラに逃げた。 火の手は方々に上がっていた。それに追われて右往左往する人々で、土手の上の混雑は物凄かった。背の高い声風だったが、腰から下は極端に痩せているとはいえ、50キロを越える体重の木歩を背負っているのだ。やっとの思いで、大川に注ぐ源森川(別名北十間川)の川口近くまで来た時、枕橋はすでに燃え落ちていた。 浅草への近道は断たれ、小梅町方向へ引き返そうとした。ところが行く手にはまた新たな火の手が上がった。川を除いて三方は全く火の海となって迫ってくる。 川の淵に出るには鉄柵を越えなくてはならない。背負ったままでは越えられなかった。傍の人に頼んで木歩を降ろした。鉄策を越えさせた木歩を、堤の芝の上に腰をおろさせて声風は屈みこんだ。 生きる道は泳ぐしかない。声風は自分一人でも泳ぎ切れるかどうか自信は無かった。まして、足の全然きかない木歩を連れてでは、半分も行かない内に、溺れてしまう。 声風は「木歩君、許して下さい。もう此処まで来ては、どうにもなりません」という声とともに、手をさし伸べた。木歩は黙ったまま声風の手を握り返した。声風は大川に身を躍らせた。数時間後、漸く対岸の竹屋の渡し付近に辿り着いた時、見返る声風の眼に向島の土手を火の旋風のはしるのが見え、次の瞬間、土手の人影は消し去られていた。 木歩は焼死した。26歳の生涯であった。
※この「関東大震災と木歩死去」の解説は、「富田木歩」の解説の一部です。
「関東大震災と木歩死去」を含む「富田木歩」の記事については、「富田木歩」の概要を参照ください。
- 関東大震災と木歩死去のページへのリンク