西国俳諧行脚
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寛政4年3月25日(1792年5月15日)、30歳になった一茶は西国への俳諧修行の旅に出た。一茶は旅の出発に当たり頭を丸め僧形になった。なお、一茶は西国に旅立った寛政4年の秋から、2年前に没した俳諧の師のひとり、竹阿の二六庵を継いで二六庵一茶と名乗っていることが確認されている。しかし葛飾派で刊行された書籍の中で一茶が二六庵の庵号を名乗っていることが確認されるのは寛政12年(1800年)が初出であり、葛飾派として正式に一茶が二六庵を継承したのは前年の寛政11年(1799年)のことであると考えられている。この西国俳諧修行時に一茶が二六庵を名乗ったことが、葛飾派公認のものか一茶が勝手に名乗ったものであるかはっきりとしない。もし公認のものであれば、一茶が竹阿の後継者として認められて俳諧師として一本立ちしたことになる。しかし一人前の俳諧師として西国へ旅立ったとしても当時の一茶はまだまだ無名であり、旅は苦難の連続となった。 前述のように竹阿は大坂暮らしが長く、西国に知己が多い上に四国や九州はかつて竹阿の地盤でもあった。かねてから一茶は竹阿の所蔵していた文章類を書写していた。師の遺した文献「其日ぐさ」は、地方行脚の中で入手した情報やノウハウがまとめられており、西国行脚のガイドブック的な役割を果たした。また一茶は西国行きの行程で多くの竹阿の知人、門人を尋ね歩くことになる。また一茶は江戸ばかりではなく全国各地の俳人約250名の住所を記した、いわば住所録である「知友録」を作成し、西国行きに備えていた。 寛政4年の3月に江戸を出発したものの、一茶はまっすぐに関西方面へと向かったわけではない。前年の帰省と同じくまずは下総方面の知人を巡った。6月になって一茶は浦賀、伊東そして遠江の知己を尋ねた後、京都へと向かった。京都では前年に父に依頼された西本願寺の代参を果たしたと考えられている。 京都を発った後は、大坂、河内、淡路島を巡って四国に渡った。四国では讃岐観音寺の専念寺に師、竹阿の弟子であった梅五を尋ねた。西国俳諧修行の旅の中で一茶は、専念寺を拠点として四国、九州を巡ることになる。その後、伊予の入野(四国中央市)に山中時風を尋ねたことが明らかとなっている。寛政4年の一茶の四国での足取りは専念寺と山中時風を尋ねたことしか明らかになっていないが、四国の後に九州に渡っており、年末には肥後の八代(八代市)にある正教寺に向かい、そこで年を越した。 寛政5年(1793年)は、肥後や肥前など九州各地を回ったと考えられている。この年の暮れには長崎へ向かい、そこで年を越した。翌寛政6年(1794年)の夏季には再び肥後へ足を延ばす。その後山口を経て年末には再び観音寺の専念寺に向かった。専念寺で年を越した後、寛政7年(1795年)に入ると一茶は伊予へ向かった。1月13日(1795年3月3日)には上難波(松山市)の最明寺へ向かった。最明寺の住職は一茶の師、竹阿の弟子であったため、一夜の宿を願ったのである。しかし肝心の住職はすでに亡くなっており、別人が住職となっていた。頼りにしていた最明寺での宿泊を断られた一茶は本当に困り果ててしまったが、幸いこのときは近隣に住む俳句愛好家の庄屋が快く泊めてくれた。このように俳諧修行の旅は苦労の絶えないものであった。 1月15日(1795年3月5日)には松山の栗田樗堂を尋ねた。樗堂は本業として酒造業を営んでいる松山有数の富豪であり、その一方で当時全国的に名が知られた俳人でもあった。片や松山有数の豪商、片や北信濃生まれの無一文に近い俳人であったが、樗堂は一茶と親友となり、長く親しい交際を続けることになる。前述の専念寺の梅五、そして馬橋の大川立砂や後に最も親しく交際していく夏目成美など、一茶は先輩の有力俳人たちに可愛がられた。これは如才のなさ、世渡り上手という一面があるのは否めないが、才能ある先輩俳人たちに可愛がられたということは、やはり一茶には確かな実力に加えて誠実さがあったものと考えられる。 伊予の各地を回った一茶は、2月末には観音寺の専念寺に戻るが、その後大坂に向かった。丸亀から船に乗って下津井(倉敷市)で下船し、その後徒歩で大坂を目指した。途中、夜間大坂への道を急ぐ中で眠気に耐えられず、民家の軒先を借りて野宿する一幕もあった。大坂に到着した一茶はその後、大坂を始め京都や大津、そして摂津、河内、大和、播磨といった近畿地方各地を回って、広く俳人との交流を深めた。交流した俳人は一茶が所属していた葛飾派の俳人ばかりではなく、他派の人たちも多かった。これは一茶の西国行脚中の寛政5年(1793年)が芭蕉百回忌に当たっていて、俳句界全体で芭蕉へ帰れという運動が巻き起こっていたことが幸いした。そのような俳句界の機運は流派同士の垣根を下げ、もともと比較的自由な気風があった関西の俳壇に身を置く形となった一茶は、流派を超えて広く俳人たちとの交流を行うことが可能な境遇に恵まれたのである。 寛政7年、一茶は寛政4年からの西国俳諧修行の旅の成果を「たびしうゐ(旅拾遺)」という本にまとめ、出版する。当時、句集を出版する場合には句の作者は一句ごとにお金を支払う、いわば出句料を拠出する習慣があった。つまりたびしうゐで紹介された句の作者は応分の出句料を一茶に支払ったものであると考えられるが、実際問題として一茶自身も相当額の自己資金を拠出したと考えられている。西国俳諧修行中、一茶は各地の俳人を巡る中でいわば俳諧の先生として受け入れられ、報酬を得ながら旅を続けてきた。一茶は多くの俳人からその実力を認められ、相当額の報酬を手に入れることが出来たため、たびしうゐの出版に漕ぎつけられたものと考えられている。 この頃の一茶の作品は、天明期の俳諧の影響を受けて与謝蕪村らの影響が見られる。しかし 秋の夜や旅の男の針仕事 のように、花鳥風月を詠まず、孤独な一人旅の中にある己の境遇を直視した、一茶らしい句も見られるようになる。 一茶は長い西国への旅の中にあっても、江戸を始め各地の俳人との連絡を欠かさなかった。中でも後に最も親しく交際する夏目成美とは、西国旅行の期間に文通が始まっている。一茶は当時文音所と呼ばれた一種の私書箱などを活用して、様々な情報を集めながら旅を続けていた。そして旅の中にあっても一茶は諸学を学ぶことを怠らなかった。前述の万葉集、古今和歌集といった古典ばかりではなく、易経といった中国の古典、そして芭蕉、宝井其角といった先覚の作品を学んでいた。また一茶は生涯書き続けた「方言雑集」というメモ集がある。これは一茶が訪れた各地の方言、風土をメモしたもので、方言雑集の始まりは西国俳諧修行の旅であったと考えられている。そして一茶の日記の中にも各地で体験した出来事のメモ書きが多く残されている。一茶の俳句の中には俗語や方言を大胆に取り入れた作品があるが、西国俳諧修行の中で、一茶は日々貪欲に様々な事物を吸収し、己の句作へと生かしていくことになる。 寛政8年(1796年)、一茶は松山の栗田樗堂宅を拠点として伊予の各地を訪れた記録が残っている。寛政9年(1797年)の正月を樗堂宅で迎えた一茶は、春には備後の福山、その後讃岐の高松、小豆島、そして近江の大津、大坂を回り、結局大和の長谷寺で年を越した。一茶としては寛政9年中に江戸へ戻る心つもりであったが、結局寛政10年(1798年)前半は近畿の各地を回ることになった。そして寛政10年には西国俳諧修行の旅の総決算ともいうべき2冊目の著作、「さらば笠」を出版する。同年6月末になってようやく江戸への帰途につき、いったん信濃の故郷に戻った後、8月下旬、6年あまりぶりに江戸へと戻った。
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