西国俳諧行脚とは? わかりやすく解説

西国俳諧行脚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)

小林一茶」の記事における「西国俳諧行脚」の解説

寛政4年3月25日1792年5月15日)、30歳になった一茶西国への俳諧修行の旅に出た一茶は旅の出発に当たり頭を丸め僧形になった。なお、一茶西国旅立った寛政4年の秋から、2年前に没した俳諧の師のひとり、竹阿の二六庵を継いで二六庵一茶名乗っていることが確認されている。しかし葛飾派刊行され書籍の中で一茶が二六庵の庵号を名乗っていることが確認されるのは寛政12年1800年)が初出であり、葛飾派として正式に一茶が二六庵を継承したのは前年寛政11年1799年)のことであると考えられている。この西国俳諧修行時に一茶が二六庵を名乗ったことが、葛飾派公認のものか一茶勝手に名乗ったのであるかはっきりとしない。もし公認のものであれば一茶が竹阿の後継者として認められ俳諧師として一本立ちしたことになる。しかし一人前俳諧師として西国旅立ったとしても当時一茶まだまだ無名であり、旅は苦難の連続となった前述のように竹阿は大坂暮らし長く西国知己が多い上に四国九州はかつて竹阿の地盤でもあった。かねてから一茶は竹阿の所蔵していた文章類を書写していた。師の遺した文献其日ぐさ」は、地方行脚の中で入手した情報ノウハウがまとめられており、西国行脚ガイドブック的な役割果たした。また一茶西国行き行程多くの竹阿の知人門人尋ね歩くことになる。また一茶江戸ばかりではなく全国各地俳人250名の住所記した、いわば住所録である「知友録」を作成し西国行き備えていた。 寛政4年3月江戸出発したものの、一茶まっすぐに関西方面へと向かったわけではない前年帰省同じくまずは下総方面知人巡った6月になって一茶浦賀伊東そして遠江知己尋ねた後、京都へと向かった京都では前年に父に依頼され西本願寺代参果たした考えられている。 京都発った後は、大坂河内淡路島巡って四国渡った四国では讃岐観音寺専念寺に師、竹阿の弟子であった五を尋ねた西国俳諧修行の旅の中で一茶は、専念寺拠点として四国九州を巡ることになる。その後伊予入野四国中央市)に山中時風尋ねたことが明らかとなっている。寛政4年一茶四国での足取り専念寺山中時風尋ねたことしか明らかになっていないが、四国の後に九州渡っており、年末には肥後八代八代市)にある正教寺向かい、そこで年を越した寛政5年1793年)は、肥後肥前など九州各地回った考えられている。この年暮れには長崎向かい、そこで年を越した。翌寛政6年1794年)の夏季には再び肥後へ足を延ばすその後山口経て年末には再び観音寺専念寺向かった専念寺年を越した後、寛政7年1795年)に入ると一茶伊予向かった1月13日1795年3月3日)には上難波松山市)の最明寺向かった最明寺住職一茶の師、竹阿の弟子であったため、一夜の宿願ったのである。しかし肝心住職はすでに亡くなっており、別人住職となっていた。頼りにしていた最明寺での宿泊断られ一茶本当に困り果ててしまったが、幸いこのときは近隣に住む俳句愛好家庄屋快く泊めてくれた。このように俳諧修行の旅は苦労絶えないものであった1月15日1795年3月5日)には松山栗田樗堂尋ねた堂は本業として酒造業営んでいる松山有数富豪であり、その一方で当時全国的に名が知られ俳人でもあった。片や松山有数豪商片や北信濃生まれ無一文に近い俳人であったが、堂は一茶親友となり、長く親し交際続けることになる。前述専念寺五、そして馬橋大川立砂や後に最も親しく交際していく夏目成美など、一茶先輩の有力俳人たちに可愛がられた。これは如才のなさ、世渡り上手という一面があるのは否めないが、才能ある先輩俳人たちに可愛がられということは、やはり一茶には確かな実力加えて誠実さがあったものと考えられる伊予各地回った一茶は、2月末には観音寺専念寺に戻るが、その後大坂向かった丸亀から船に乗って下津井倉敷市)で下船しその後徒歩大坂目指した。途中夜間大坂への道を急ぐ中で眠気に耐えられず、民家軒先借りて野宿する一幕もあった。大坂到着した一茶その後大坂始め京都大津、そして摂津河内大和播磨といった近畿地方各地回って広く俳人との交流深めた交流した俳人一茶所属していた葛飾派俳人ばかりではなく他派の人たちも多かった。これは一茶西国行脚中の寛政5年1793年)が芭蕉回忌当たっていて、俳句全体芭蕉帰れという運動巻き起こっていたことが幸いしたそのような俳句界の機運流派同士垣根下げ、もともと比較自由な気風があった関西俳壇身を置くとなった一茶は、流派超えて広く俳人たちとの交流を行うことが可能な境遇恵まれたのである寛政7年一茶寛政4年からの西国俳諧修行の旅の成果を「たびしうゐ(旅拾遺)」という本にまとめ、出版する当時句集出版する場合には句の作者一句ごとにお金支払う、いわば出句料を拠出する習慣があった。つまりたびしうゐで紹介された句の作者応分の出句料を一茶支払ったのである考えられるが、実際問題として一茶自身相当額自己資金拠出したと考えられている。西国俳諧修行中、一茶各地俳人を巡る中でいわば俳諧先生として受け入れられ報酬を得ながら旅を続けてきた。一茶多く俳人からその実力を認められ相当額報酬手に入れることが出来たため、たびしうゐの出版漕ぎつけられたものと考えられている。 この頃一茶作品は、天明期の俳諧影響受けて与謝蕪村らの影響見られる。しかし 秋の夜や旅の男の針仕事 のように、花鳥風月を詠まず、孤独な一人旅中にある己の境遇直視した一茶らしい句も見られるうになる一茶長い西国への旅の中にあっても、江戸始め各地俳人との連絡を欠かさなかった。中でも後に最も親しく交際する夏目成美とは、西国旅行の期間に文通始まっている。一茶当時文音所と呼ばれた一種私書箱などを活用して様々な情報集めながら旅を続けていた。そして旅の中にあっても一茶諸学を学ぶことを怠らなかった。前述万葉集古今和歌集といった古典ばかりではなく易経といった中国古典、そして芭蕉宝井其角といった先覚作品学んでいた。また一茶生涯書き続けた方言雑集」というメモ集がある。これは一茶訪れた各地方言風土メモしたもので、方言雑集始まり西国俳諧修行の旅であった考えられている。そして一茶日記中にも各地体験した出来事メモ書き多く残されている。一茶俳句中には俗語方言大胆に取り入れた作品があるが、西国俳諧修行の中で、一茶日々貪欲に様々な事物吸収し、己の句作へと生かしていくことになる。 寛政8年1796年)、一茶松山栗田樗堂宅を拠点として伊予各地訪れた記録残っている。寛政9年1797年)の正月堂宅で迎えた一茶は、春に備後福山その後讃岐高松小豆島、そして近江大津大坂回り結局大和長谷寺年を越した一茶としては寛政9年中に江戸へ戻る心つもりであったが、結局寛政10年1798年前半近畿各地を回ることになった。そして寛政10年には西国俳諧修行の旅の総決算ともいうべき2冊目の著作、「さらば笠」を出版する同年6月になってようやく江戸へ帰途につき、いったん信濃故郷戻った後、8月下旬6年あまりぶりに江戸へ戻った

※この「西国俳諧行脚」の解説は、「小林一茶」の解説の一部です。
「西国俳諧行脚」を含む「小林一茶」の記事については、「小林一茶」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「西国俳諧行脚」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「西国俳諧行脚」の関連用語

西国俳諧行脚のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



西国俳諧行脚のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの小林一茶 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS