西国三十三所の確立とは? わかりやすく解説

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西国三十三所の確立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:46 UTC 版)

西国三十三所」の記事における「西国三十三所の確立」の解説

長谷寺平安時代初期頃から霊験著し観音霊場寺院として、特に朝廷から崇敬寄せられただけでなく、摂関期には藤原道長参詣するなど、重要な観音霊場であったこうした長谷寺位置付けゆえに三十三所の一番となったと見られることから、11世紀末頃(1093年 - 1094年頃)と見られる行尊巡礼長谷寺から始まることは自然なことと考えられる。しかし、12世紀後半の覚忠の巡礼において、長谷寺から遠く隔たった那智山第一番となるには大きな変化があったと見なければならず、それには熊野詣の盛行西国三十三所における熊野那智山位置という2つの点を見なければならない前者の例として挙げられるのは、後鳥羽院13回、後白河院27回といった参詣であり、こうした盛行影響され三十三所順路影響受けて12世紀後半には那智山を一番札所とするようになった考えられている。 後者西国三十三所における熊野那智山位置付けであるが、熊野那智山には三十三所開創巡礼との関係が多数ある。伝説上の開創裸形とし、奈良時代以前から特別な聖地であった那智山には、三十三所伝説上の開創である花山院寛和2年986年)に参詣をしたことに由来して多数伝承見られる。それらの伝承には、例え那智滝花山院千日滝籠行を行ったとするほか、滝元千手堂本尊花山院に結びつけたり妙法山に庵や墓所があったとするものが見られ那智山における花山院伝承は非常に重要である。また、中世には諸国廻国遊行する廻国巡礼行者多数いたが、三十三所を巡る三十三度行者なる行者那智山住僧多数なっていただけでなく、その往来手形もまた那智山管掌するところであった青岸渡寺伝来史料伝えている。こうした点から分かるように、当初摂関期観音信仰をもとにしていた三十三所は、院政期熊野詣の盛行影響下で熊野那智山を一番札所とするようになり、花山院伝承喧伝三十三度行者活動通じて熊野那智山により広められていった三十三所固定化し、東国からの俗人交えて民衆化するのは15世紀半ばを下る時期のことであった

※この「西国三十三所の確立」の解説は、「西国三十三所」の解説の一部です。
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