西国との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:24 UTC 版)
大宮・村山口登山道を利用する道者は西国からの者が多かったとされる。同登山道から西国方面を見ていくと、まず尾張国からの登拝者が多く認められる。尾張国でも知多郡からの登拝者が多いとされ、それは遅くとも16世紀まで遡ることができる。 さらに西方面に視点を移すと伊勢志摩では富士参りを行う文化があり、現在でも行う地域が残る。公文富士氏が記した道者帳によると、慶長18年(1613年)に大宮口を利用した伊勢からの道者数(5月19日から6月3日の集計)は280人に及び、これは同期間の道者数の半分以上にのぼるという。 また登拝道の道中には「室」が設けられており、嘉永7年(1854年)にそれらが記録されているが、伊勢の先達により建立されたものが有意に多い。このような伊勢国からの奉納例はいくつか散見され、真生寺(三重県松阪市)に伝わる享保2年(1717年)の「石造大日如来像」は同様のものが複数造られた上、1つは富士山に奉納されるなどしている。 嘉永元年(1848年)の村山口の道者帳(大鏡坊)によると、伊勢国からの道者数(5月27日から7月27日)は同年同期間で559人であったといい、令制国別では駿河国より多く首位であったという。また志摩国は187人であったという。このことから、西国からの登拝者が多かったことが分かる。これらの富士参りの定着から同地では「富士参りの歌」(道中歌)が歌われており、伊勢では伊勢参宮街道沿いに多く分布し、志摩では沿岸部に多く分布している。また志摩国鵜方の浅間神社では祭礼の際に富士参りの歌が歌われる。また道中や登拝道の地名等がそれらに含まれている。 この嘉永元年(1848年)の村山口の道者帳には現在の伊勢市東豊浜町土路からの集団での登拝が確認され、時代は遡り元禄2年(1689年)の大宮口の道者帳である「駿州富士大宮本宮道者帳」にも同地域からの集団での登拝が確認されている。このように、近世を通して富士参りが長く継続されており、それは近代でも同様であった。 大和国との関係として、嘉永7年(1854年)の史料によると大和国添上郡南都清水町の住人がたびたび富士山中に「室」の建立をしている。また奈良市矢田原町には大宮・村山口登山道を描く富士参詣曼荼羅図が伝わる。村山三坊の各坊は全国に旦那場を設定していたが、元禄5年(1692年)の時点では大和国一円は大鏡坊の旦那場であった。西国では他に京都・大坂の「富士垢離」が知られる。富士垢離の初見は黒川道祐「日次記事」という史料であり、「鴨水ノ側二精舎ヲ講」とあるといい、富士垢離は鴨川で行われていた。このように富士山の信仰は広く全国に広がっており、その中でも大宮・村山口登山道の場合は西国の尾張国や伊勢国・志摩国といった地域から登拝する者が多く認められた。
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