村山から富士山頂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:24 UTC 版)
「大宮・村山口登山道」の記事における「村山から富士山頂」の解説
村山から登拝する場合夜行登山となるため、その前に村山の宿坊にて宿泊するのが慣例であった。その際は大鏡坊であることが多く、近世を通して同様である。前述の『寺辺明鏡集』がそうである他、近世の登拝記録である羽倉簡堂が記した天保9年(1838年)「東游日歴」、原得斎が記した文政11年(1828年)『富嶽行記』等でも大鏡坊に宿泊したことが示されている。また西国の道者も大鏡坊を用いている記録が多い(後述の西国との関係を参照)。 村山浅間神社の西側が登山道であったとされ、登山道に入ると「発心門」が位置し、ここで道者は自らの名を札打ちするという風習があった。慶長7年(1602年)の史料によると、この発心門および「札打」は村山三坊のうち大鏡坊直轄であったという。 逆に森林限界に近い「室大日」には「等覚門」が位置していたとされ、これは近世末期の「富士山禅定図」に「発心門」と同様文字で記されている。同図には室大日の位置に「往生寺」とあるため、室大日の別名が往生寺に該当するという指摘がある。この室大日は富士山中腹に位置し中継地点であったと考えられ、富士山縁起では末代上人が開創したと記し、近海筆のものや池西坊伝来のものに見られる。また『浅間大菩薩縁起』には「建長3年〈辛亥〉6月14日 冨士滝本往生寺に於て書写し了ぬ」の奥書がある。また同図の室大日の部分には「茶ヤ」ともあるため、休憩施設であったとされる。 大宝院秋山家資料に「冨士嶺行所納札書様」という史料があり、村山から頂上に至るまでの重要地点が記されている。当史料では「発心門」「中宮」「瀧本岩屋」等の施設が記され、数々の行場がありそれに即した行法が存在していたことが分かっている。 上述の「東游日歴」では馬返しや役行者の祠のある笹垢離、御室大日堂等を記し、夜行登山の様子を記している。その後は山頂の大日祠(表大日)に宿泊し、雷岩や金明水を巡り下山している。『富嶽行記』では札打、中宮八幡宮、御馬返し、御室大日堂等を記し、御室大日堂(室大日)より下は樹木が生い茂っているがそれより上は禿山であるとし、御室大日堂がその境であるとしている。富士参詣曼荼羅図では御室大日堂を過ぎた地点で道者が松明を手に登拝を行う様子が描かれており、夜行登山が行われていたことが示され、これは夜行登山後にご来光を拝むためである。
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