背景と沿革
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「中華人民共和国労働法」の記事における「背景と沿革」の解説
建国後、1950年代に計画経済システムを打ち立ててから、1980年代半ばまでは、都市で勤労する者については一律に、いわゆる「固定工」制度が採られていた。つまり、学校を卒業すれば、国から職が行政的に「分配」され、基本的に定年までその職場で勤務した。とりわけ国有企業が計画経済体制のもとで活動していた1970年代まで、(都市)労働者の就業は基本的に国によって保障され、失業者は存在しないとされていた。実際には失業状態にある者も存在したが、そうした状況は一時的なものとみなされ、彼らは「失業者」ではなく、「待業者」と呼ばれた。国は労働者に職場を保障しなければならなかったが、労働者にとっては、職場は国によって与えられるものであり、職業を選択する自由は与えられていなかった。職場は生産組織として「労働=報酬」という単純な経済的機能にとどまらず、都市住民の生活基盤にかかわる包括的な機能を果たした。それは国家による国民把握のための基本単位ともなり、文字通り「単位(ダンウェイ)」と呼ばれた。「単位」は各種生活物資や住宅の配給、医療・年金などの社会保障、食堂・浴場・保育園・学校・商店・理髪店・娯楽施設などの社会サービスを従業員に提供し、戸籍や治安、「档案」を通じた政治思想面での監視・統制のツールであった。「単位」と労働者の間には契約関係はなく、その法的な性質が問われることもなかった。このシステムのもとでは給与水準は低いものの、ゆりかごから墓場まで「単位」が面倒みる、極めて平等な社会が実現した。食いっぱぐれがないという意味で「鉄飯碗」(割れない茶碗)、能力や成果が分配に反映されない悪平等という意味で「吃大鍋飯」(大釜の飯を食う)と形容された。このシステムが実現可能だったのは、農村からの人口移動を戸籍制度によって厳しく制限し、都市を閉じられた空間にできたからである。1978年の中共11期三中全会で「改革開放」路線が打ち出され、市場経済への移行が進むにともない、このような関係は急速に解消された。国有企業に解雇権が与えられる一方、労働者にも職業選択の自由が与えられ、労働力市場が形成され、これにより国有企業は終身雇用制から転換して、労働契約制に移行することになった。かつて政府によって計画的に配分された行政的身分関係の固定工も、市場経済体制の中で労働契約を締結する契約工となり、本法により、すべての労働関係は労働者とその使用単位が労働契約を締結することによって形成されることになった(本法第16条第2項)。
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背景と沿革
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「中華人民共和国契約法」の記事における「背景と沿革」の解説
現在東アジアの国々で民法改正が相次いで進められている。例えば、2002年モンゴルにおける新民法典、2006年ベトナムにおける新民法典、2007年カンボジアにおける民法典の制定がされている。これには、市場経済化の必要性から(中国のほかはベトナム、カンボジアがその例)と社会の成熟・民主化の進展(韓国、台湾などがその例)という二つの大きな要因がある。中華人民共和国においては、1978年の中共11期三中全会で「改革開放」路線が打ち出されたことに始まる。「改革開放」路線導入初期の1981年に同国最初の社会主義型契約法である「中華人民共和国経済契約法」が制定された。「経済契約」とは、主に社会主義公有制組織間で国家計画の実現を目的として締結される契約であり、国家の経済契約と直接関連しない通常の民事契約とは原理的に区別された。経済契約は、国家の経済計画具体化の手段であり、契約に対する行政的管理がされていたことが特徴である。1980年代には、同法と「中華人民共和国渉外経済契約法」、「中華人民共和国技術契約法」の3つの契約法が「三足鼎立」の状況にあった。1990年代に入り市場経済の導入が本格的となり、それに対応するため、1993年に「中華人民共和国経済契約法」を改正し、計画に関する規定をほとんど削除し、国家に契約への直接関与の仕組みも廃止した。しかし、3つの契約法間に内容の重複や齟齬・矛盾を抱えることになり、また「中華人民共和国経済契約法」自体も契約総則にあたる部分に空白が多いなどの欠陥も顕在化した。市場経済への転換がさらなる進展により、経済契約概念そのものを維持する社会的必要性も失われ、民事契約との統合や国内契約と渉外契約の統合のために統一契約法を制定することとなり、1999年に本「中華人民共和国契約法」が制定された。現在、中華人民共和国での商取引において、当事者の利益と権利ならびに市場取引の保護に大きな役割を果たしている。
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背景と沿革
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「中華人民共和国労働契約法」の記事における「背景と沿革」の解説
国有企業が計画経済体制のもとで活動していた1970年代まで、労働者の就業は基本的に国によって保障され、失業者は存在しないものとされた。実際には失業状態にある者も存在したが、そうした状況は一時的なものとみなされ、彼らは「失業者」ではなく、「待業者」と呼ばれた。国は労働者に職場を保障しなければならなかったが、労働者にとっては、職場は国によって与えられるものであり、職業を選択する自由は与えられていなかった。1978年の中共11期三中全会で「改革開放」路線が打ち出され、市場経済への移行が進むにともない、このような関係は急速に解消され、国有企業に解雇権が与えられる一方、労働者にも職業選択の自由が与えられ、労働力市場が形成されることになった。これにより国有企業は終身雇用制から転換して、労働契約制に移行することになった。国有企業に労働契約が初めて導入されたのは、1986年の国営企業労働契約制実施暫定規則によってである。この段階では、まだ多くの企業は終身雇用制を基本としており、労働契約は部分的にしか導入されなかった。ようやく1993年に中華人民共和国公司法が制定され、国有企業が株式会社に移行し始めたこと、1994年に中華人民共和国労働法が制定され、労働契約制への全面的な移行が促されたことで、労働契約は急速に普及することになった。労働契約の普及は、多様な雇用形態を生み出し、安価な賃金を前提とする労働力市場の拡大が中国経済の拡大を支えるという構図を確立する一方、安価な労働力を確保する必要性が、労働者の権利をなおざりにする傾向を助長した。貧しい農村地域から、賃金収入を求めて大量の労働者が都市へ流入したが、都市戸籍を得られない「農民工」の多くは、二級市民として差別され、貧困から抜け出せない生活を余儀なくされている。
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